海壁

第三章

七隻

挿絵:七隻

網は、マーロウに届かなかった。

途中で、裂けた。

何かが、網を、下から突き抜けていった。

黒い髪が、見えた。

長い黒い髪が、風に広がっていた。

人だった。

東から走ってきた人影が、禁止区の白い地面を蹴って、網を突き抜けて、そのまま旗艦の腹から垂れた鎖に飛びついていた。

鎖を、素手でつかんで、登っていく。

速かった。

ミラベルが走るより、ずっと。

旗艦の腹の縁に、手がかかった。

融合兵が三人、縁で待ち構えていた。

その人は、一人目の融合兵の、殻の腕に、手のひらで触れた。

触れただけだった。

殻の腕の継ぎ目から、黒い粒が、ぱらぱらとこぼれた。融合兵が、崩れるように膝をついた。

二人目にも。三人目にも。

切っていなかった。血を流していなかった。

触れるだけで。


その人は、旗艦の甲板に立った。

ヴァレリアの、十歩前に。

ヴァレリアの縦に細い瞳孔が、初めて、揺れた。

『…何だ、おまえは』

その人は、答えなかった。

代わりに、旗艦の甲板から垂れている、槍の鎖の束に、手を置いた。

鎖に絡みついていた海の水が、黒くなった。粒になって、ばらばらと落ちた。

それから、その人は、鎖の束を、両手でつかんで、引いた。

太い鉄の鎖が、何十本も、根元の歯車ごと、甲板から引き抜かれた。

旗艦が、大きく傾いた。

ヴァレリアが、甲板の手すりにしがみついた。

『…撤退だ』

ヴァレリアの声が、初めて、割れた。

『全艦、撤退! あれは、数でどうにかなるものじゃない!』

七隻が、南へ向きを変えた。

槍と鎖を、海に落としたまま。よろめきながら。

海の星が、ゆっくりと、また瞬きはじめた。

ニコが、波打ち際で、仰向けに倒れた。笑っていた。


旗艦の縁から、その人が、飛び降りた。

二十メートルの高さから。

禁止区の白い地面に、音もなく降りた。

砂を、一歩も滑らせずに。

マーロウの、目の前だった。

背は、ウィラより少し高いくらいだった。細かった。長い黒い髪が、背中まであった。灰色の目だった。

三十くらいに見えた。

自分と、同じくらいに。

マーロウは、その顔を知っていた。

六年、思い出さないようにしてきた顔だった。

市場の外れの家。暗いうちに起きて、井戸まで歩いて、桶に一杯汲んでくる背中。柄杓で一杯だけ、自分に飲ませて、自分は飲まなかった人。

その人が、少しだけ首を傾げて、マーロウを見上げていた。

『…マーロウ』

声が、昔と同じだった。

『大きくなったね』

マーロウは、何も言えなかった。

口を開いて、閉じて、また開いた。

七隻に向かって「断る」と言った口から、声が出てこなかった。

やっと出てきたのは、一言だった。

「…母さん」


リーネ・ケインは、手を伸ばした。

マーロウの頬に、触れた。

ためらうように。それから、確かめるように。

触れる寸前、その指が、一度だけ止まった。

止まって、それから、ゆっくり下りてきた。

その手が、温かかった。

痛みを感じない体でも、温かいのは、分かった。

「…今、何かしてただろ。触る前に」

『押さえてたの』

「何を」

『この手。今のあたしは、水に触れなくても、生きてるものに触れるだけで、持っていっちゃうから』

マーロウは、自分の手のひらを見た。

自分の血は、むき出しの水にしか効かない。海にも、桶にも、傷口にも効くが、乾いた皮膚は通さない。だから、ヴェスタは素手で自分を縫えるし、ミラベルは腕を押さえられる。

この人は、そこを越えていた。

『押さえてれば、触れる。押さえるのに、力が要るだけ』

「その力ってのは」

『あたしの水』

リーネは、なんでもないことのように言った。

『六年も、ごめんね』

「…死んだって、聞いた」

『うん。知ってる。役人が、そう言うことになってたから』

リーネは、少しだけ笑った。

笑い方が、昔と同じだった。

それから、マーロウの後ろを見た。

壁の根元から、乾いたところの端まで走ってきて、そこで止まっている子どもを。

赤茶の髪を、半分ほどいて。息を切らして。

『…その子は?』

マーロウは、振り返った。

ウィラが、そこにいた。

何と言えばいいか、分からなかった。

分からないまま、口が動いた。

「ウィラだ。おれの」

そこで、言葉が詰まった。

リーネは、ウィラの顔を見て、それからマーロウの顔を見た。

そして、ゆっくり頷いた。

全部、分かったという頷き方だった。

『そう。あなたの、なのね』


リーネは、マーロウの頬から手を離した。

離した手を、自分の胸の前で、握った。

握った手が、小さく震えていた。

マーロウは、それに気づいた。

「一つ訊きたい。おれの血は、二十九年、何もしなかった。壁の向こうで海を浴びた日から、急に効きだした」

『濡れるまで、眠ってるの。この血は』

「…知ってたのか」

『知ってた。だから、海に近づくなって、うるさく言った』

リーネは、少しだけ笑った。

『本部は、作った子を、作ったその日に濡らすの。時計を始めるためだけじゃない。血を起こすためよ。あなただけ、濡らさせなかった』

「…どうやって」

『あたしが産んで、そのまま連れて逃げた。井戸の水で暮らせる家を選んで、海からいちばん遠い外れに住んだ。それだけ』

それだけ、と言った。

二十九年ぶんの、それだけだった。

「…どうした」

『あのね、マーロウ』

リーネは、海を見た。星の海を。

それから、息子を見た。

『時間が、あんまりないの』

「…何の時間だ」

『あたしね。だんだん、自分が分からなくなってきてるの。力を使うたびに、少しずつ』

リーネは、笑った。

昔と同じ笑い方で。

『だから、走ってきた。忘れる前に、あなたの顔を見たくて』

第三章 了