第十章
暗い箱

その夜、ニムの店の奥に集まった。
ニムが、根を噛んでいるヴェスタの横で、頭を抱えていた。
「わし、嘘をついたぞ。監察官に」
『嘘じゃない』とドラグが言った。『あんたは百六十年、理由を知らなかった。この前聞いただけだ』
「屁理屈だろが」
『屁理屈でいい』
ロズリンが、紙を広げた。
『明日、台を出します』
全員が、ロズリンを見た。
『深い水は、今夜で二十一本になります。市場の端に台を一つ。暗い箱を一つ。持ってきた粒に一滴垂らして、覗いてもらう』
「監察官の前でか」とマーロウが訊いた。
『監察官の前で、です』
ロズリンは、眼鏡を押し上げた。
『あの人は、正しく書かれた紙が好きだそうです。なら、正しいものを見せます』
台は、市場の東の端に置いた。
古い机を一つ。その上に、黒い布を張った木の箱を一つ。箱の横に、深い水の筒を一本。
ロズリンが、机の後ろに座った。
ドラグが、その横に立った。
朝いちばんに来たのは、干し肉屋の女だった。十年前から同じ台で干し肉を売っている。
『…これ、なんの台だい』
「粒を調べる台です」とロズリンが言った。「持っている粒が、まだ中身が入っているかどうか、分かります」
『中身?』
「粒は、使うと中身が減ります。減った粒は、灯りに入れても暗いままです。見た目では分かりません」
女は、しばらく黙って、それから腰の袋から粒を二つ出した。
両方とも、印が打ってある。
「一滴、垂らします」
ロズリンが、筒の栓を抜いた。
女は、箱の覗き穴に顔を寄せた。
中は、真っ暗だ。
十数える。二十数える。
女の肩が、跳ねた。
『…光っとる』
「一つ目は、中身があります」
『もう一つは』
「二つ目に垂らします」
ロズリンが、もう一滴。
女が、また覗いた。
今度は、長かった。
覗いたまま、動かなかった。
『…真っ暗だ』
「二つ目は、空です」
女は、顔を上げた。
『こいつは、去年、うちの人の葬式代に、隣の家から借りたんだ』
誰も、何も言えなかった。
『…返さんといかんのかね、これ』
「返す必要はありません」とロズリンが言った。「貸した人も、借りた人も、中身のことは知りませんでした。誰も悪くありません」
女は、二つの粒を握りしめた。
それから、列の後ろを振り返った。
十人ほど、並んでいた。
昼には、五十人になった。
夕方には、市場の通りの端まで伸びていた。
セドリックは、それを一日じゅう、少し離れたところから見ていた。
紙に、何かを書き続けていた。
夕方、列が途切れたときに、ようやく台の前まで来た。
『よろしいですか』
「どうぞ」
セドリックは、外套の内側から、革の小箱を出した。
中に、粒が一つ入っていた。印が打ってある。ほかの粒より、ひとまわり丁寧に磨かれていた。
『帝国の見本粒です。百年前、都の金庫に納められたものです。帝国の粒の、基準になっています』
ロズリンが、筒を取った。
「一滴、垂らします」
『どうぞ』
セドリックは、覗き穴に顔を寄せた。
十数える。
二十数える。
三十数えても、顔を上げなかった。
やがて、セドリックは顔を上げた。
表情は、朝と同じだった。
『何も見えません』
「空です」
『百年、金庫に置いてありました。誰も使っていません』
「粒は、使わなくてもゆるみます。ゆっくりですが」
ロズリンは、静かに言った。
「百年は、ゆっくりが積もるには、じゅうぶんな時間です」
セドリックは、見本粒を小箱に戻した。
戻す指が、ほんの少しだけ、遅かった。
『…あなたは、これを、都に持ち帰るなと言いますか』
「言いません」
『なぜです』
「私は記録係です。書くのが仕事で、隠すのは仕事ではありません」
ロズリンは、セドリックを見上げた。
「ただ、書き方は選びます。粒が空だった、とだけ書けば、明日から市場が止まります。空の粒でも、灯りは細く点る。新しい粒を足せば戻る。作れる者が、この街に一人いる。そこまで書けば、止まりません」
セドリックは、しばらく黙っていた。
それから、紙をめくった。
『…その、作れる者というのは』
ロズリンは、答えなかった。
答える前に、セドリックが自分で言った。
『昨日、壁の下で、海の水に手を入れていた男ですね』
その夜、セドリックは、ニムの店の戸を叩いた。
一人で来た。兵を連れていなかった。
『マーロウ・ケインさん』
「…なんだ」
『都から預かった命令書を、読み上げます』
セドリックは、鞄から紙を出した。
『粒を新たに生む方法を持つ者を発見した場合、当該の者を、帝国の都へ速やかに送ること』
店の中が、静かになった。
『以上です』
「断る」
『でしょうね』
セドリックは、紙を鞄に戻した。
『私は、命令書を読み上げました。読み上げたと書きます。あなたが断ったとも書きます。そこまでが、私の仕事です』
「連れていかないのか」
『私一人では、無理です。兵が二十人でも、たぶん無理です。この前、空船を七隻追い返した街ですから』
セドリックは、戸口で足を止めた。
『ただ、次に来るのは、私ではありません』
振り返らずに言った。
『私は紙を書く人間です。次に来るのは、紙を読んだ人間です』
第十章 了