
第一章
生きている名前

「教えろ」
マーロウは、金属に手を当てたまま言った。
声が、自分のものではないように聞こえた。
『リーネ・ケイン』
抑揚のない声だった。
名前を聞いた瞬間、マーロウの喉の奥で、何かがほどけた。
リーネ。
母親の名前だった。市場の外れの家で、近所の女たちがそう呼んでいた。自分は、母さん、としか呼んだことがなかった。
「…知ってる。母さんの名前だ」
『はい』
「六年前に死んだ」
『いいえ』
壁の上を、風が吹いた。
『リーネ・ケインは、生きています』
梯子の途中で、ウィラが息を呑む音がした。
マーロウは、振り返れなかった。
「…死んだって、聞いた」
『誰からですか』
「帝国の役人だ。母さんが熱を出して倒れて、役人が施療所へ運んだ。三日後に、死んだと言いに来た。熱病の死体は、まとめて埋めたと」
『その役人は、嘘をつきました』
「あんたは」
『私は、あなたに何も言っていません。訊かれていませんでしたので』
マーロウの手のひらの下で、金属が冷たかった。
六年。
六年、母親は死んだと思っていた。納屋で寝て、拾い屋をやって、ウィラを拾って、東へ行って、坑の底へ下りて、三十日壁を登って。
その間、ずっと。
「…どこにいる」
『本部の、一番奥の部屋です。六年前に、私が引き取りました』
「なんでだ」
声が、低くなっていた。
『リーネ・ケインの体が、変わったからです』
「変わった」
『百六番目の材料を宿して、あなたを産んだ日から、リーネ・ケインは歳を取らなくなりました』
マーロウは、母親の顔を思い出した。
いつまでも若い、と近所の女たちが笑っていた。苦労してないからだよ、と。母親は、笑い返さなかった。
『痛みも、感じにくくなりました。そして六年前、リーネ・ケインの血は、肌に触れた水を、切らなくても粒にしはじめました。あなたより、強く』
「…だから、連れていった」
『はい。調べるために、眠らせて、保管しました』
保管。
台帳。番号。名前の欄。
この計算機は、母親のことも、そういう言葉で呼ぶ。
マーロウは、金属から手を離しかけた。
離さなかった。
「会わせろ」
『あなたは、この海を離れられません。約束を書き換えたときに、そう決めました』
「知ってる」
『孤独の大地までは、往復で六十日以上かかります』
「知ってるって言ってんだよ」
マーロウの拳が、金属を叩いた。
痛くなかった。
痛くないのが、今夜ほど腹立たしかったことはなかった。
梯子の途中から、ウィラが上がってきた。
何も言わずに、マーロウの隣にしゃがんだ。
金属を叩いた拳を、両手で包んだ。
『…マーロウのお母さん、生きてるの?』
小さな声だった。
「生きてる、らしい」
『会いたい?』
マーロウは、答えなかった。
答えなくても、ウィラには分かった。拳が、ウィラの両手の中で、震えていた。
金属が、もう一度、震えた。
『一つ、お伝えすることがあります』
マーロウとウィラが、同時に金属を見た。
『訊かれてはいません。ですが、あなたの取引の数字に関わるので、お伝えします』
「…言え」
『リーネ・ケインは、七日前に、自分で目を覚ましました』
マーロウの息が、止まった。
『私の命令は、受けていません。部屋の扉を壊して、本部を出ました。止めようとした者は、全員、止められませんでした』
「…どこへ」
『西です。巨人が残していった道を、歩いています。人の足の、五倍の速さで』
抑揚のない声が、夜の壁の上に落ちた。
『この街へ、向かっています。到着は、三日後です』
ウィラの手が、マーロウの拳を、強く握った。
海の星が、壁の向こうで、ゆっくり瞬いていた。
翌朝、サイラスが、硝子の板を持って走ってきた。
走るサイラスを見るのは、初めてだった。眼鏡が、鼻の先までずり落ちていた。
『報せでございます。二つ』
板に、白い字が二行、並んでいた。
南方より、共和国の空船、七隻。旗艦に都の提督。到着、三日後。
東方より、個体名リーネ・ケイン、接近中。到着、三日後。
「…同じ日か」
『同じ日でございます』
サイラスは、眼鏡を押し上げた。
『偶然か、どうかは、存じません』
七隻。
前は三隻だった。三隻でも、海が干されかけた。
ニムの店に、全員が集まった。
「七隻だと?」とニムが叫んだ。「冗談じゃないわ! 三隻でもあの騒ぎだったろが!」
ドラグは、黙って地図を見ていた。
グロムの銃は、弾が残っていない。牛六十頭ぶん、使い切った。
ミラベルの指は、二本曲がったままだ。ベルの刃は二本ある。ケイルは、もういない。
『勝てるの?』とミアが訊いた。
誰も、答えなかった。
その沈黙を破ったのは、ウィラだった。
『勝ち方、考えよう』
全員が、ウィラを見た。
『前は、ふりをして、鎖を切って、海に押し返してもらった。今度は七隻だから、同じやり方じゃ足りない。だから、考えるの。三日あるんだから』
十五歳の子どもの声だった。
だが、誰も笑わなかった。
ニコは、店の隅で、膝を抱えていた。
マーロウは、隣に座った。
「怖いか」
『…怖い』
「おれもだ」
ニコが、顔を上げた。
『マーロウも?』
「七隻だぞ。怖くないやつがいたら、そいつは頭がおかしい」
ニコは、少しだけ笑った。
それから、真顔になった。
『…あのね。昨日の夜、あいつが言ってた』
「あいつって、海のか」
『うん。聞こえないけど、分かった』
ニコは、自分の手のひらを見た。
『守る、って。ぼくが頼んだら、今度は、押し返すだけじゃなくて、守るって』
マーロウは、ニコの横顔を見た。
十二歳の横顔だった。一月半前、熱で死にかけて、夜中に一人で海の水を飲んで、ごめんなさいと言った子だった。
「…頼めるか」
『頼む。ぼくが頼まないと、あいつ、動けないから』
ニコの手が、震えていた。
震えたまま、握りしめられていた。
第一章 了