第二章
母

二日目の夜、マーロウは、壁の上にいた。
眠れなかった。
母親のことを考えていた。
明日、七隻が来る。明日、母親が来る。
六年、死んだと思っていた人が。
足音がした。
ミラベルだった。曲がった指を胸に抱えて、隣に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
『…坊やのお母さん、どんな人だった?』
「水を汲みに行く人だった」
『水?』
「毎朝、暗いうちに起きて、井戸まで歩いて、桶に一杯汲んでくる。帰ってきたら、柄杓で一杯だけ、おれに飲ませる。自分は飲まない」
『…優しい人だね』
「知らなかった。自分は飲まなくても平気だったんだ。たぶん」
痛みを感じにくい体。歳を取らない体。
母親は、自分の体のことを、全部知っていたのかもしれない。知っていて、何も言わなかった。
『会えるといいね』
「…ああ」
ミラベルが、夜空を見上げた。
『ねえ坊や』
「なんだ」
『あたしさ、惚れた惚れたって、いつもふざけて言ってるでしょ』
「言ってるな」
『あれ、ふざけてないからね』
マーロウは、ミラベルを見た。
ミラベルは、こちらを見ていなかった。星を見ていた。
茶色い目が、濡れていた。
『二百十年で初めてなんだよ。誰かのこと考えて、眠れないの。坊やが坑の底みたいなとこに一生いるって決まったとき、あたし、ほっとしたんだ。遠くに行かないって。最低でしょ』
「…最低じゃない」
『明日、七隻来るじゃん。あたし、たぶん、また無茶する。指、もう二本曲がってるのに』
ミラベルは、曲がった指を見た。
『だから、今のうちに、言っとこうと思って』
マーロウは、しばらく何も言えなかった。
それから、手を伸ばした。
ミラベルの、曲がったほうの手を、取った。
金属の指は、冷たかった。二本だけ、あり得ない方向を向いていた。
その二本を、自分の指で、そっと包んだ。
ミラベルが、固まった。
「無茶するなら、帰ってこい」
『…』
「それだけ約束しろ」
ミラベルは、包まれた手を見ていた。
それから、声を出さずに、何度も頷いた。
頷くたびに、茶色い目から、何かがこぼれた。
三日目の朝。
南の空に、影が七つ並んだ。
七つの黒い腹。七つの白い光。先頭の一隻は、他の倍の大きさがあった。
壁の上で、ウィラが叫んだ。
『来た! 南!』
同じとき、ニコが、東を指さした。
濡れた道の、ずっと先。
地平線に、人影が一つ。
走っていた。
砂煙が、後ろに長く、長く伸びていた。
ミラベルが走るときより、長く。
七隻は、海の上で横一列に並んだ。
先頭の旗艦の腹が開いて、光の柱が一本、禁止区の白い地面に落ちた。
光の中を、女が一人、降りてきた。
背が高い。燃えるような赤い髪を、短く刈り込んでいる。銀色の鎧。左の目のまわりに、グリフォンの羽根のような模様が、皮膚に直接刻まれていた。目は、猛禽の目だった。瞳孔が縦に細い。
マーロウは、ひと目で、この女が嫌いだと分かった。
豆を食べるミラベルとも、首を傾げるベルとも違う。この女は、人を数字でしか見ない顔をしていた。
『ヴァレリア・コルト。都の提督だ』
女は、壁の上を見上げて言った。
『前の男は、甲板から私を叩き出した。翼の男だ。どこにいる』
誰も答えなかった。
『まあいい。用件は一つ。海の星と、神の血を渡せ』
「断る」とマーロウが言った。
『だろうな』
ヴァレリアは、笑いもせずに言った。
『では、奪う』
七隻の腹が、一斉に開いた。
槍が、降った。
前の三隻の比ではなかった。何百本もの、先の回る槍が、雨のように海へ落ちていった。
海が、悲鳴を上げた。
聞こえない悲鳴だった。それでも、全員に分かった。星が、槍の刺さったところから、何百も、いっぺんに消えた。
ニコが、波打ち際で膝をついた。
『痛い…痛いよ…』
ニコは、両手で耳を押さえかけて、やめた。
その手を、海の上に、広げた。
『…守って』
小さな声ではなかった。
『守って! みんなを! ぼくも、守るから!』
海が、立ち上がった。
一本の壁ではなかった。
何十本もの、星を抱えた水の柱が、沖から、次々と立ち上がった。柱の先が、腕のように曲がって、槍の鎖をつかんだ。つかんで、引いた。
鎖が、ちぎれた。
空船が、傾いた。一隻。二隻。
禁止区で、兵たちが声を上げた。
ニコは、波打ち際で、両手を広げたまま、立っていた。
膝が、震えていた。
震えながら、一歩も引かなかった。
十二歳の子どもが、海を、率いていた。
ベルが、水の柱を足場にして跳んだ。二本の刃で、槍の鎖を左右同時に断った。
ミラベルが、反対側から跳んだ。一本の刃で。曲がった指で、刃がぶれた。ぶれながら、断った。
グロムの兵は、弾のない銃を捨てて、鉤と棒で、光の柱から降りてくる融合兵と打ち合っていた。ドラグが、先頭にいた。素手だった。
ブリンが、右の拳で、一人を海へ叩き落とした。
『あっはっは! 七隻がなんだ!』
ガスが、壁の上で縄を握っていた。ウィラが、その横で叫んでいた。
『右! 三隻目の鎖、まだ切れてない! ベル、右!』
それでも、七隻は多すぎた。
水の柱が一本、旗艦の槍に貫かれて、崩れた。星が散った。
ニコが、声を上げて、膝をついた。
ミラベルが、融合兵の爪を肩に受けて、禁止区の白い地面に叩きつけられた。黒い液が、散った。
ヴァレリアが、旗艦の甲板から、それを見下ろしていた。
『数だ』
よく通る声だった。
『力は、数に勝てない。二百十年前の刃も、新しい刃も、子どもの海も』
旗艦の腹から、網が降った。
マーロウの真上に。
鉄の糸の網が、空いっぱいに広がった。
第二章 了