海壁

第三十章

縛りが解ける

挿絵:縛りが解ける

その夜、マーロウは壁に手を当てた。

金属は、いつもより早く震えた。訊く前に、答えが来た。

『均衡は、本日、成立しなくなりました』

「…知ってる」

『個体は南下しました。粒を水に戻す働きが、この海から失われました。したがって、あなたが毎朝粒を作る意味も、失われました』

マーロウは、手のひらを金属に当てたまま、動けなかった。

『三十年の約束は、書き換えたときに取り消しました。書き換えた後の約束は、この海のそばにいることでした』

金属が、一度、間を置いた。

『その約束を、破棄します』

風が、壁の上を吹き抜けた。

『あなたは、どこへ行ってもかまいません』


ミラベルが、隣で息を呑んだ。

マーロウは、しばらく何も言えなかった。

一生ここにいる、と決めた日から、一年も経っていない。

その一生が、たった今、終わった。

「…条件は」

『ありません』

「本当に無いのか」

『ありません。私は、成立しない約束を維持しません。無駄だからです』

「おれが南へ行っても、止めないのか」

『止めません』

金属は、そこで、少しだけ長い間を取った。

『むしろ、行っていただいたほうが、私の計算には合います』

「…どういう意味だ」

『個体は、四つ目の海の上に向かっています。共和国は、その蓋を掘っています。蓋の下には、三百年閉じ込められたものがいます。この三つが、同じ場所で出会います』

「それで」

『そこに神の血が無い場合、起きることを、私は計算できません』

マーロウの手のひらの下で、金属が冷たかった。

『計算できない、と私が言うのは、三百四十年で二度目です』


壁を降りると、ウィラが梯子の下で待っていた。

待っていたというより、待ち伏せていた。

『聞いてた』

「上まで聞こえてたか」

『ううん。でも顔でわかる』

ウィラは、腰に手を当てた。

『行くんでしょ』

「…ああ」

『あたしも行く』

「ああ」

ウィラの口が、開いたまま止まった。

『…え。今、なんて』

「行っていい、と言った」

『え。ちょっと待って。三回くらい断られる予定だったんだけど』

「断る理由が、なくなった」

マーロウは、ウィラの頭に手を置いた。

七度目だった。

「おまえが荷車を引け。おれは血を作る。役割はそれでいい」

ウィラは、しばらく動かなかった。

それから、両手で顔を覆って、しゃがみこんだ。

声を殺して泣いて、立ち上がって、鼻をすすって、笑った。

『…荷車、一番だからね』

「知ってる」


納屋に戻ると、ミラベルが藁の上に座っていた。

膝を抱えて、こちらを見ていた。

『…ねえ。壁で言われたこと、もう一回言って』

「どこへ行ってもかまわない、だ」

『それ』

ミラベルは、膝に顔を半分埋めた。

『あたし、うれしいのか、怖いのか、分かんない』

「怖い?」

『だって、坊やがこの街にいなきゃいけない理由って、あたしがここにいる理由でもあったんだもん』

マーロウは、藁の上に腰を下ろした。

「おれが南へ行くと言ったら、あんたはどうする」

『ついてく』

即答だった。

『決まってるじゃん。訊くのも失礼だよ』

「本部の刃だろ。命令はどうする」

『やだ、って送っといた』

「いつ」

『去年』

ミラベルは、顔を上げて、にっと笑った。

『あれ以来、命令来ないもん。たぶん、あたし、もう外されてる』

マーロウは、少し黙ってから言った。

「ついてこい」

『…命令?』

「頼みだ」

ミラベルの目が、まるくなった。

「あんたがいないところに、行く気はない」

ミラベルは、藁の上から飛びついてきた。マーロウの首に腕を回して、耳元で三回言った。

好き。大好き。愛してる。

その夜、納屋の灯りは、いつもより早く消えた。


翌朝、ベルがその話を裏づけた。

『一番への指示は、昨年の秋から一度も出ていません』

「外されたのか」

『いいえ。本部は、指示を出さないだけです。所属は、そのままです』

ベルは、いつもの声で言った。

『本部の言い方では、こうなります。一番は現在、任務に適さないが、廃棄の必要もない』

ミラベルが、桶を落としそうになった。

「…それ、どういう意味?」

『放っておかれている、という意味です』

ミラベルは、しばらく黙っていた。

それから、両手を上げて、叫んだ。

『放っておかれてるー! 最高ー!』

朝の列が、笑った。


その日の夕方、サイラスが板を持ってきた。

『本部から、報せでございます』

白い字は、三行あった。

共和国製の刃、四本。試験稼働を確認。

二本が、試験の日に技師を殺害。

残り二本は、地下の作業場に封じられた。

「…暴れたのか」

『暴れました』とベルが言った。『本部の見立てどおりです』

「死んだのは何人だ」

サイラスが、板を傾けた。

『そこまでは、書かれておりません』

ミラベルは、板の二行目を、長いこと見ていた。

『…あたしの真似だよ、それ』

声が、低かった。

『形だけ真似して、中身が空のまま動かされて、暴れて、殺して、封じられる』

ミラベルは、自分の左手を見た。

『名前、もらってないんだろうな』

誰も、答えられなかった。

第三十章 了