海壁

第二十三章

新しい年

挿絵:新しい年

この世界の新しい年は、何も起きない。

暦は帝国が配る。市場の隅に、来年の暦を書いた紙が貼り出される。それだけだ。

ただ、その年の最初の朝、納屋の中では、一つだけ起きた。

ミラベルは、先に起きていた。起きていたのに、藁の中から出てこなかった。マーロウの上着を頭からかぶって、丸くなっていた。

「…何してる」

『顔、見せられない』

「なんで」

『昨日、好きって言われたから。そのあと、ずっとくっついてたから』

上着の中から、くぐもった声がした。

『思い出すと、顔が熱いの。粒で動いてるのに熱いの。どうなってんの、これ』

マーロウは、上着の端を少しだけめくった。真っ赤な耳が見えた。

「約束したろ。朝は、なんて言うんだ」

上着が、しばらく動かなかった。

それから、顔が半分だけ出てきた。

『…おはよう、マーロウ』

「おはよう」

『今年も、好き』

「知ってる」

『知ってる、じゃないの。そこは』

マーロウは、上着の上から、その頭に手を置いた。

「…おれもだ」

ミラベルは、また上着の中に引っ込んだ。中で、言葉にならない声を上げていた。


帝国暦三四九年。

貼り出しの前で、ウィラが指を折って数えていた。

『あたし、十六。ニコが十三で、ミアが十五』

「そうだな」

『マーロウが三十。ミラベルが二百十一』

「…二百十一か」

『歳とるんだね、あの人も』

ミラベルは、そばで豆を食べていた。

「とるよ。数だけね」


その朝、ベルが紙を持って桶の列に来た。

ロズリンに借りた紙だった。字は、定規で引いたように真っ直ぐだった。

『一番。数を報告します』

「何の数」

『あなたが食べた粒の数です。二百三十九日ぶん、記録しました』

ミラベルが、桶を置いた。

「…あんた、ずっと数えてたの」

『はい。数えるのは得意です』

ベルは、紙を読み上げた。

『一日に一つ。多い日は二つ。二百三十九日で、二百八十一』

「へえ」

『同じ期間に、この街が作った粒は、三十一万四千です』

市場の音が、少し遠くなった。

『一番が一年に食べる量は、この街が半日かからずに作ります』


ミラベルは、しばらく黙っていた。

それから、ベルの手から紙を取って、自分でもう一度読んだ。

「…半日」

『半日、かかりません』

「あたし、本部から粒もらえなくなったら止まるって、ずっと思ってた」

『二百十年、そうでした。本部以外に、粒を作れる場所がありませんでしたので』

ベルは、いつもの抑揚のない声で言った。

『今は、あります』

ミラベルの手から、紙が落ちた。

マーロウが、それを拾った。

拾って、桶の列を見た。

グロムの兵。ブリンの代わりに入った坑夫上がりの男たち。オットとサム。ニコ。

毎朝、この列が回っている。

「…首根っこ、掴まれてないな」

『掴まれてません』とベルが言った。

ミラベルは、両手で顔を覆った。

『…なにこれ』

声が、震えていた。

『あたし、二百十年、本部のもんだったのに。今日から、豆と同じじゃん。街で作ってるもんじゃん』

「そうだな」

『やだ。うれしい。なにこれ。うれしいんだけど』

ミラベルは、顔を覆ったまま、その場にしゃがみこんだ。

列が、止まった。

誰も、文句を言わなかった。


東門の脇に、新しい小屋が建った。

門番補の小屋だ。

中に、ガルド・レインが座っていた。左手で、木を削っていた。削っているのは、門の閂に使う楔だった。

『よう、粒の男』

「その呼び方はやめろ」

『では、なんと呼ぶ』

「マーロウでいい」

ガルドは、楔を光にかざして、また削りはじめた。

『四十年、右で剣を振った。左で木を削ると、指が思ったところに行かん。初めて剣を持った日と同じだ』

「楽しそうだな」

『楽しい。四十年ぶりに下手なことをやっている』

ガルドは、削り屑を吹き飛ばした。

『おれが粒を集めていた頃は、粒は帝国の血だと教わった。帝国の血が空だと知ったのが、去年だ。おれは何を守っていたんだろうな』

「門を守れ。今は」

『そうしている』


昼、ウィラが水道橋の上でマーロウを捕まえた。

上着の袖を、両手でつかんできた。

『あたし、春になったら南に行く』

「だめだ」

『まだ理由も聞いてないでしょ』

「聞かなくても、だめだ」

『ドラグさんとシビルさんが帰ってこないの。二か月って言ったのに、もう三か月だよ』

マーロウは、川の跡を見た。

緑の帯が、冬のあいだに少し枯れて、また芽を出しはじめている。

『手紙は来た』

「来たな」

『来たけど、手紙は人じゃない』

ウィラは、袖を離さなかった。

『あたし、荷車は一番なんだから』

「知ってる」

『だから、考えといて。今すぐ、いいって言わなくていい。考えといて』


夕方、ミラベルが市場から走って帰ってきた。

手に、暦の紙を持っていた。

『坊や。あたしの誕生日、いつだと思う?』

「知らん」

『あたしも知らない』

ミラベルは、暦を広げた。

『作られた日は、記録にあるんだって。ベルに訊いたら、本部の台帳に載ってるって。でもさ、それ、誕生日っていうのかな』

「言わないな」

『でしょ』

ミラベルは、暦の紙を、指でとんとんと叩いた。

『だから決めた。今日にする』

「今日か」

『うん。帝国暦三四九年の、一日目。二百十一歳の誕生日』

マーロウは、しばらく黙った。

それから、帯の小袋から粒を一つ出して、ミラベルの手のひらに置いた。

『え』

「誕生日だろ」

ミラベルの顔が、みるみる赤くなった。

『…粒くれるの? あたしに? 今日のぶんとは別で?』

「別だ」

ミラベルは、粒を両手で包んで、胸に当てた。

それから、空を見上げて、大きな声を出した。

『あたし、今日、生まれたーっ!』

市場のほうから、ニムの怒鳴り声が返ってきた。

「うるさいわぁ!」

第二十三章 了