第二十章
三か月

その朝、ガスは、いつもより早く蔵へ行った。
最後の一滴の日だった。
三か月。九十日。一日も欠かさなかった。
サムとオットは、椅子に座っていた。いつもどおり、背筋を伸ばして、膝の上に手を揃えて。
ミアが、兄の前にしゃがんだ。
椀を持っていた。豆と芋。塩は、少なめ。
マーロウとウィラは、戸口に立っていた。シビルの蔵の、窓のない部屋だ。
ガスが、筒の栓を抜いた。
残りは、ほんの一滴ぶんだった。
『…サム』
ガスの声が、震えていた。
『最後だからな。ちゃんと飲めよ』
サムは、丁寧に頷いた。
一滴が、唇に落ちた。
何も、起きなかった。
十数えた。
二十数えた。
ガスの肩が、少しずつ下がっていった。
『…だめか』
「まだだ」とマーロウが言った。「九十日目の朝だ。今日から、じわじわ戻るのかもしれん」
『そんな話だったか』
「知らん。誰も知らん。やったやつがいないんだからな」
そのときだった。
サムが、椅子の上で、身じろぎをした。
背筋が、崩れた。
三か月、崩れなかった背筋が、猫背になった。
サムは、自分の膝の上の手を見た。
それから、首の後ろを掻いた。
掻いてから、大きな欠伸をした。
『…あー。くそ。腰いてえ』
部屋の中の空気が、止まった。
『なんだこの椅子。硬すぎんだろ。誰だこんなとこに座らせたの』
ガスは、動かなかった。
動けなかった。
サムが、顔を上げた。
ガスを見た。
それから、ガスの右手を見た。指が三本しかない手を。
サムの顔が、ゆっくり、歪んだ。
「…ガス」
『おう』
「おまえ、指」
『落とした』
「なんで」
『おまえを買い戻す代金にな。指二本で足りると思ったんだが、足りなかったんだよぉ』
サムは、椅子から立ち上がった。
立ち上がった拍子に、よろけた。三か月、ほとんど歩いていない脚だった。
ガスが、支えた。三本の指で。
サムは、その肩に顔を埋めて、子どものように泣いた。
二十年、ガスの隣にいた男が、二十年ぶんの声で泣いた。
ミアが、椀を持ったまま、震えていた。
サムが、泣きながら、妹を見た。
『ミア』
「…兄ちゃん」
『でかくなったな』
「三か月しか経ってない」
『でかくなった』
サムは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、椀を受け取った。
一口食べた。
『…しょっぱい』
ミアが、泣きながら怒った。
「減らしたもん! ちゃんと減らしたもん!」
『減らしてこれか』
「兄ちゃんの舌が変なの!」
『変じゃねえよ。おまえの塩の量が変なんだよ』
オットが、隣の椅子で、まだ丁寧に座っていた。
その口が、ふいに動いた。
『…二人とも、うるさい』
低い声だった。
『朝から、喧嘩するな』
ガスが、崩れ落ちた。
石の床に、膝と手をついて、声を上げて泣いた。
その晩、街は祭りになった。
誰が決めたわけでもない。
サムとオットが戻ったという話が、昼のうちに市場を一周した。夕方には、誰かが樽を転がしてきて、誰かが干し肉を焼きはじめて、気がついたら市場の通りに人が溢れていた。
ニムが「酒は高いぞ」と言いながら、樽の栓を抜いた。
ガスが、サムとオットの肩を両側から抱えて、三人で歩いた。歩いては止まり、人に囲まれ、また歩いた。同じ話を、三回ずつした。
ヴェスタが、店から瓶を出してきた。草の挿してある瓶だ。市場の真ん中の台に置いた。
街の人間が、それを囲んで、しばらく黙って見ていた。
緑を見たことのない大人たちが、順番に、そっと指で葉を触った。
ウィラは、ミアとニコと、樽の上に並んで座っていた。
足をぶらぶらさせて、干し肉を食べていた。
ミアが、干し肉をかじりながら、同じことを三回言った。
『兄ちゃん、あたしの豆、しょっぱいって言った。ずっと待ってて、最初に食べて、それだよ』
「いいじゃん。しょっぱいって言えるんだから」
『…うん』
ミアは、干し肉を持ったまま、ウィラの肩に頭をぶつけた。
『ウィラ。毎朝、一緒に鍋洗ってくれて、ありがと』
「姉ちゃんだからね」
『一個しか違わないくせに』
ニコが、二人のあいだで、干し肉を二本いっぺんにかじっていた。
祭りの途中、干し肉屋の女が、マーロウのところへ来た。
空だった粒のことで、礼を言いに来たのだった。話しながら、女がマーロウの腕に手を置いた。
置いた手が、離れる前に、間に白いものが差し込まれた。
『はい、そこまで』
ミラベルだった。
『ありがとうございました。もういいよね。もういいでしょ』
女が、目を丸くして、笑って、離れていった。
「…礼を言いに来ただけだぞ」
『知ってる』
「それで、あれか」
『触らないでほしいの。坊やに。誰も』
ミラベルは、しゃがんで、膝を抱えた。
『こんなの、初めてなんだよ。胸のここが、ぎゅうってなるの。二百十年、粒を食べてれば済んでたのに』
マーロウは、その頭に手を置いた。
「…おれは、あんたの前で、あんた以外の誰の手も握ったことがない」
『…うん』
「これからもない」
『…うん』
ミラベルは、膝に顔を埋めた。
『ずるい。そういうの、ほんとにずるい』
マーロウは、少し離れた石段に座っていた。
ミラベルが、隣に座った。腕から、伸びかけの刃を少し出して、また引っ込めた。
『ねえ坊や』
「なんだ」
『今日、いい日だね』
「ああ」
『あたし、二百十年生きてきたけどさ。今日みたいな日、あんまりないんだよね』
ミラベルは、祭りの通りを見ていた。
『みんな生きてて、誰も泣いてなくて、豆がうまくて、隣に坊やがいる。これ、全部そろうのって、たぶん、そんなに無いよ』
マーロウは、答えなかった。
答えずに、ミラベルの左手を取った。
曲がった二本の指ごと、包んだ。
ミラベルの耳が、赤くなった。
『…人前だよ』
「知ってる」
『あっはは。坊や、変わったね』
「あんたのせいだ」
『あたしのおかげ、って言ってよ』
「おかげだ」
ミラベルは、マーロウの肩に頭を乗せた。
市場の向こうで、誰かが歌いはじめた。
下手な歌だった。
ミラベルが、肩に頭を乗せたまま、その歌に合わせて足を揺らしていた。
第二十章 了