第三十二章
麦

哨所に着いたのは、十四日目だった。
荷車が二台ぶんの速さで走れたからだ。馬は、街でいちばん元気な二頭を借りた。ウィラが手綱を握ると、馬が勝手に速くなる。南へまっすぐ行くより遠回りだが、荷車の通れる道は、哨所を通る道しかなかった。
哨所は、去年と違っていた。
折れた鉄の塔は、そのままだ。だが、塔の根元から南へ、細い水路が三本伸びていた。
水路の両側に、丈の低い草が並んでいた。
穂が、ついていた。
ハーランが、水路の縁にしゃがんでいた。
火傷のない側の顔で、こちらを見上げた。
『来たか』
「麦か、それは」
『麦に似とる。麦かどうかは、まだ分からん』
ハーランは、穂を一つ、指で挟んだ。
『実は入っとる。食えるかどうかは、来月わかる』
坑夫たちが、水路の向こうから手を振った。
十九人が、まだ十九人いた。
『オークが六人、水を通す。人間が十三人、乾いた側で蒔く』とハーランが言った。『誰も浸かっとらん。一人もだ』
「よく続いたな」
『続かせた。籠に人を乗せて下ろしていた男だからな。数えるのは慣れとる』
ハーランは、立ち上がった。
『南へ行くと聞いた。塩売りから』
「行く」
『二つ、持っていけ』
ハーランは、小屋から袋を二つ出してきた。
一つは、種だった。
『その麦の種だ。向こうで水があったら蒔け。無かったら捨てていい』
もう一つは、紙の束だった。
『九年ぶんの、空と書いた紙だ。あれから、毎日書いとる。何を試して、何が駄目だったか』
ハーランは、紙束をウィラに渡した。
『字の書ける子が読め。読んだら、同じ失敗をしなくて済む』
その夜、哨所で火を焚いた。
ニコは、水路の縁に座って、南を見ていた。
海から離れて、十四日になる。
腰まで浸かる海が、もう無い。
「大丈夫か」とマーロウが訊いた。
『平気。筒、飲んでるから』
ニコは、帯から、黒い布を巻いた小さな筒を出した。深い水の筒だ。二本持ってきた。一日一口と決めている。
『それに、聞こえるんだ』
「聞こえる?」
『海じゃなくて、地面から』
ニコは、水路の水に手を浸した。
『あいつ、南の海岸を通ってる。ずっと。ときどき、ぼくのほうを向く』
「分かるのか」
『分かるよ』
ニコは、少し笑った。
『名前呼んでるもん、ぼくのこと。名前ないのに、呼ばれてるって分かるんだ。変だよね』
ミラベルが、火の向こうで豆をかき混ぜていた。
ロズリンが、その横で紙を広げていた。ハーランの紙束を、一枚ずつ読んで、自分の帳面に写していた。
ウィラは、荷台で眠っていた。手綱を握りすぎて、手のひらが赤かった。
マーロウは、自分の上着を脱いで、ウィラにかけた。
赤くなった手のひらが、上着の下に隠れた。
マーロウは、火の横に座った。
ミラベルが、椀を差し出した。
『はい。塩、控えめ』
「珍しいな」
『ブリンがいないと、塩は減るの』
ミラベルは、荷台のほうを顎で指した。
『さっきの、見てたよ。上着』
「それがどうした」
『お父さんじゃん』
「違う」
『名字あげたくせに』
マーロウは、豆を一口食べてから言った。
「…名字はやった。父親かどうかは、あいつが決める」
『あの子、とっくに決めてると思うよ』
ミラベルは、自分の左手を火にかざした。
指が、三本まっすぐになっていた。
残る一本も、前より角度がゆるんでいる。
『ねえ坊や』
「なんだ」
『あたし、この旅が終わったら、指、全部戻ってると思う』
「そうか」
『そしたら、両手で坊やの顔、挟める』
ミラベルは、火を見たまま言った。
『それ、やってみたかったの。ずっと』
翌朝、哨所を出るとき、坑夫たちが水路の縁に並んだ。
十九人が、手を振った。
ハーランは、振らなかった。
代わりに、火傷のない側の顔で、一度だけ頷いた。
荷車が走り出すと、後ろから声が飛んできた。
『おい、拾い屋!』
マーロウが振り返った。
ハーランが、水路の縁に立っていた。
『帰りに寄れ! 実が入っとったら、食わせてやる!』
「入ってなかったら」
『そのときは、次の種を蒔いとる!』
南へ折れてから、道は静かだった。
去年、巨人が通った跡は、ここまで来ると、もう分からなくなっていた。草が伸びて、跡を埋めていた。
昼に一度、荷車を止めて休んだ。
ロズリンが、ハーランの紙束を読んでいた。
「…この方は、失敗を全部書いています」
『そういう人だね』とウィラが言った。
「三十七日間、何も起きていませんと書き続けた人です」
ロズリンは、紙をめくった。
「あのとき、私は、何も起きていないと書くのが仕事だと思っていました。今は、違うと思います」
『どう違うの』
「何も起きていない、と書けるのは、誰かが毎日、何かを起こさずに済ませているからです」
ロズリンは、紙束を膝に置いた。
「哨所の壁が崩れなかったのも、坑が三年半保ったのも、誰かが毎日、そうしていたからでした」
国境が近づいた夜、ミラベルが火の当番だった。
マーロウが起きると、ミラベルは火の横で膝を抱えて、南を見ていた。
「寝ろ」
『寝ない。考えてるから』
「何をだ」
『あたし、共和国に刃が四本あるって聞いてから、ずっと考えてる』
ミラベルは、火に枝を一本足した。
『あの子たち、名前ないでしょ。番号もないかもしれない。作られて、動かされて、暴れて、地下に封じられて』
「…ああ」
『あたし、それになってたかもしれないんだよ』
火の粉が、上がった。
『オスカー爺さんがいなかったら、あたし、名前がないまま、どこかの地下にいた』
マーロウは、火の横に座った。
何を言えばいいのか、分からなかった。
分からないまま、手を伸ばして、ミラベルの左手を取った。
指は、三本まっすぐで、一本だけ、まだ曲がっていた。
『…ねえ坊や』
「なんだ」
『もし、都で、その四本に会ったら』
ミラベルは、火を見たまま言った。
『あたし、名前つけていい?』
マーロウは、その横顔を見た。
「…つけろ」
『壊さなきゃいけなくなっても?』
「つけてから壊せ」
ミラベルは、しばらく黙った。
それから、小さく笑った。
『うん。そうする』
第三十二章 了