海壁

第六章

十四日

挿絵:十四日

リーネは、街になじまなかった。

市場を歩くと、人が振り返る。三十くらいに見える女が、三十近い男を「マーロウ」と呼んで、手を引いて歩く。姉と弟にしか見えない。

ニムが「あれはマーロウの母親だ」と一日に十回説明して、十回とも信じてもらえなかった。

ウィラは、最初の二日、距離を取っていた。

三日目の朝、跡の縁でニコの水を見張っていたとき、リーネが隣にしゃがんだ。

『ウィラちゃん』

「…なに」

『あの子、マーロウの何?』

ウィラは、ニコを指した。

「弟分。海の水飲んじゃった子」

『ううん。そうじゃなくて』

リーネは、ウィラの顔を覗き込んだ。

『あなたは、マーロウの何?』

ウィラの口が、止まった。

拾われた子だ、と言おうとした。

三年前に市場で勝手についてきた子だ、と。

言えなかった。

言えないまま、下を向いた。

『言わなくていい』

リーネは、ウィラの頭に手を置いた。

置く前に、指が一度止まった。それから、そっと下りてきた。

『あの子、あなたのこと話すとき、声が変わるのよ。あたしが六年ぶりに会っても、すぐ分かるくらい』

ウィラの肩が、震えた。

「…嘘」

『嘘じゃない。母親だもの。分かるよ』

ウィラは、下を向いたまま、鼻をすすった。

それから、小さく言った。

「…あたし、ごはん作るの下手」

『知ってる。あの子が言ってた』

「言ってたの!?」

『焦がすって』

「焦がしてない! 一回だけ!」

リーネが、声を出して笑った。

ニコが、水から顔を上げて、二人を見ていた。


その日から、ウィラはリーネにくっついて歩くようになった。

ミラベルは、それを少し離れたところから見ていた。

壁の上で、マーロウの隣に座って、膝を抱えて。

『いいなぁ』

「何が」

『お母さんがいるって、いいなぁって』

ミラベルは、曲がった二本の指を、夕日にかざした。

『あたし、作られたんだもん。産んでもらってない。オスカー爺さんが名前くれたけど、あれは名付け親であって、親じゃないでしょ』

「…ミラベル」

『妬いてるの。分かってる。ひどいよね、こんなこと』

ミラベルは、膝に顔を埋めた。

マーロウは、しばらく黙っていた。

それから、言った。

「あんたの名前を半分もらった子が、今、禁止区の岩の上に座ってる」

ミラベルが、顔を上げた。

「あいつ、あんたの真似をして、首を傾げる。あんたの真似をして、桶を運ぶ。あんたが笑うと、笑い方を見てる」

『…それは』

「親だろ」

ミラベルの茶色い目が、まん丸になった。

それから、ぐしゃっと崩れた。

『ずるい…坊や、そういうの、ほんとにずるい…』

ミラベルは、マーロウの肩に額を押しつけて、しばらく泣いた。

壁の下の禁止区で、白い影が、こちらを見上げていた。

ベルは、何も言わずに、また海のほうへ向き直った。


四日目の夕方だった。

リーネが、ニムの店で、豆を煮ていた。

ウィラが横で手伝っていた。

リーネが、鍋をかき混ぜながら、何気なく言った。

『ねえ、テオ。塩どこ』

ウィラの手が、止まった。

店の奥で、マーロウの背中も止まった。

「…母さん」

リーネが、顔を上げた。

きょとんとしていた。

『え?』

「今、誰の名前を呼んだ」

リーネは、一度、瞬きをした。

それから、自分の口を手で押さえた。

押さえた手が、震えていた。

『…テオって、言った?』

「言った」

『…だれ? その人』

店の中が、静かになった。

マーロウは、自分の胸の奥が、冷たくなっていくのを感じた。

テオ・ラント。

隊商の護衛だった男の名前だ。哨所へ向かう途中、水吸いにやられて死んだ。母親がカルヴァにいる、とロズリンが帳面に書いた。

母親が知っているはずのない名前だった。三か月前、この街から遠く離れた荒れ地で死んだ男の名前を、リーネは、自分の子どもと間違えて呼んだ。

リーネは、口を押さえたまま、笑おうとした。

うまく笑えなかった。

『…ごめん。ちょっと、疲れてるみたい』


その夜、マーロウは壁に上がった。

石の剥がれたところに、手のひらを当てた。

「聞こえてるか」

『聞こえています』

「母さんのことだ」

『はい』

マーロウは、一度、息を吸った。

「あと、どれくらいだ」

金属が、震えた。

本部は、嘘をつかない。訊かれたことには、答える。

『リーネ・ケインの記録は、六年ぶんあります。眠っていた六年で、減り方の速さを測りました』

「数字で言え」

『力を使わずに、ただ生きているだけなら、あと三年ほど保ちます』

マーロウの手のひらの下で、金属が冷たかった。

『ですが、リーネ・ケインは、この街まで十日で走りました。空船の鎖を引き抜きました。人に触れるために、力を押さえ続けています』

「あと、どれくらいだ」

『十四日です』

海の星が、壁の向こうで、ゆっくり瞬いていた。

『誤差は、二日です』

マーロウは、金属から手を離さなかった。

離したら、その十四日が、今すぐ始まってしまう気がした。


その夜、ミラベルは機嫌がよかった。

壁の上へ上がってきて、マーロウの隣にどすんと座った。手に、豆の椀を二つ持っていた。

『はい、坊やの分』

「…いい」

『食べなよ。ブリンが今日は塩入れすぎたけど、その分うまい』

マーロウは、椀を受け取らなかった。

ミラベルは、二つとも膝に置いて、海を見た。

『お母さん、市場でニムに怒られてたよ。杏を三つも食べたって』

「…ミラベル」

『あっはは。親子だねぇ。坊やも昔、三つ食べたんじゃないの』

「話がある」


ミラベルの笑いが、止まった。

止まったが、顔はまだ笑っていた。笑ったまま、目だけが、こちらを見ていた。

『…なに』

「この前の、壁の上のことだ」

『うん』

「手を取った。悪かった」

海の音がした。

ミラベルは、膝の上の椀を見ていた。

『…悪かった、って』

「あれは、おれが弱ってたからだ。母さんのことで、頭がいっぱいだった。あんたの気持ちに、返事をした気になってた」

『返事、してくれたと思ったよ』

「してない」

マーロウは、言い切った。

言い切るのに、坑の底を三十日登ったときより力が要った。

第六章 了