海壁

第三十三章

問い

挿絵:問い

その夜、マーロウは、一人で壁に上がった。

見張り塔の灯りが、北から南まで、三キロにわたって全部点いていた。一つも欠けていなかった。

壁の向こうで、海が光っていた。

星の海だった。巨人が入った夜ほどではない。それでも、黒い水の中で、何十万の星が、呼吸をするような速さで瞬いていた。

あいつが、ゆっくり食べている。

毎朝、この街の連中が桶を回して、自分が手を入れて、粒を作る。あいつが、それを水に戻す。

行って、戻って。

行って、戻って。

減らない。


上着の内側に、石の板があった。

十三人の番号の紙と、同じ場所に。

名前の欄の話だ、とマーロウは思った。

孤独の大地の台帳。百六人ぶんの、白い右端の欄。

坑の底の十三人。ロズリンが、マーロウ・ケインと十三回書いた。

一。本人が、それでいいと言った。

ガリー・ノーツ。四十一年ぶりに、名前が書かれた。

ベル。半分の名前。

全部、埋まっていった。

一つだけ、埋まっていない欄があった。

自分の欄だった。

名前はある。マーロウ・ケイン。

だが、その横の欄が、空いていた。

どこで。

誰から。


一の声が、耳に残っていた。

桶で作られたなら、ありえん。

おまえ、桶で作られたんじゃないな。

本部なら知っとる。あいつは嘘はつかん。訊かれたことには、答える。

マーロウは、母親のことを考えた。

六年前の夏に死んだと聞かされた母親。

市場の外れの、小さな家。朝早く起きて、水を汲みに行く背中。帰ってくると、柄杓で一杯だけ、マーロウに飲ませた。自分は飲まなかった。

母親が死んだと聞かされてから、あの家には戻っていない。納屋で寝るようになったのは、その夏からだった。

腕の数字のことを、一度だけ訊いた。

七つか、八つのころだった。

知らない、と母親は言った。

それで、その話は終わった。

母親が死んだ日に、完全に終わったと思っていた。

海には近づくな、と、母親はよく言った。

壁のほうへは行くな。禁止区は、子どもが行くところじゃない。

この街の親は、誰でもそう言う。だから、特別な言葉だと思ったことはなかった。

今は、分からなかった。


マーロウは、壁の上の、石の剥がれたところにしゃがんだ。

錆びない金属が、灯りの下で鈍く光っていた。

手のひらを、当てた。

冷たかった。

「聞こえてるか」

少しして、手のひらの下で、金属が震えた。

『聞こえています。一〇六番』

「訊きたいことがある」

『どうぞ』

マーロウは、一度、息を吸った。

坑の底へ下りる籠に乗ったときも、こんなふうに息を吸った気がした。

「おれは、桶で作られたのか」

金属の震えが、止まった。

間が、一つ。

『いいえ』


風が、壁の上を吹き抜けた。

海の星が、揺れていた。

マーロウは、手のひらを、金属から離さなかった。

「…じゃあ、何だ」

『あなたは、生まれています』

抑揚のない声だった。

天気を言うのと同じ声だった。

『百六番目の材料は、桶に入れていません。最後の材料を、八十年しまっておいて、人の体に、宿らせました』

マーロウの手のひらが、金属の上で、動かなくなった。

「…人の体」

『はい』

「誰の」

間が、一つ。

二つ。

『その質問にお答えする権限を、私は持っています』

抑揚のない声が、夜の壁の上で、少しだけ、遅く聞こえた。

『あなたの母親の名前を、お伝えしますか』


マーロウは、答えなかった。

答えられなかった。

手のひらの下の金属は、もう震えていなかった。待っていた。三百四十年動いている計算機が、一〇六番の返事を、待っていた。

壁の下で、足音がした。

振り返ると、梯子の途中に、ウィラの頭が見えた。

眠れなかったらしかった。上着を肩に引っかけて、半分寝ぼけた顔で、こちらを見上げていた。

『…マーロウ?』

小さな声だった。

『まだ起きてたの。何してんの』

マーロウは、手のひらを金属に当てたまま、ウィラを見た。

上着の内側で、石の板が、少しだけ重かった。

感じていて、重くない、重さだった。

海の星が、壁の向こうで、ゆっくり瞬いていた。

行って、戻って。

行って、戻って。

マーロウは、金属に向き直った。

口を、開いた。

第三十三章 了

第二巻 了

第二巻の終わり 人物相関図
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