海壁

第六章

名付け親

挿絵:名付け親

その夜、ミラベルは火のそばに来なかった。

荷車から離れた岩の上に、一人で座っていた。膝を抱えて。濡れた跡のほうを、ずっと見ていた。

いつもなら誰かに絡んでいる時間だった。豆を三杯おかわりして、ブリンと大声で笑って、マーロウの袖を引っぱっている時間だった。

マーロウは、椀を二つ持って、岩に登った。

「食え」

『…いらない』

「豆だぞ。あんた豆好きだろ」

『好きだけど、今はいらない』

マーロウは、椀を一つ、ミラベルの横に置いた。自分も座った。

しばらく、二人とも何も言わなかった。


『ねえ坊や。あたしの名前、誰がつけたと思う?』

「前に言ってたな。つけた奴はもう死んでるって」

『うん。オスカー・グリムって爺さん』

ミラベルは、膝を抱えたまま言った。

『あたしを作った技師。本部の中で、あたしの腕をつないで、目を入れて、最後に名前をつけた人。本部は番号しかつけないのに、あの人だけ、名前をつけた』

「グリムは、その爺さんの名字か」

『そう。勝手にもらった。あの人は、あげるなんて一言も言ってない』

ミラベルは、少し笑った。

『毎朝、おはよう、ミラベルって言うんだよ。あたしが返事しなくても言うの。十年くらい毎朝。返事の仕方、知らなかったんだよね、あたし』

「覚えたのか」

『覚えた。覚えた次の年に、死んじゃった』

跡の水が、月の光を映していた。

『最後に、何て言ったと思う?』

「分からん」

『ミラベル、おまえは刃だけど、刃のためだけに生まれたんじゃないぞ、って』

ミラベルは、自分の左腕を見た。金属の指を、一本ずつ開いて、閉じた。

『二百年、意味が分かんなかった。刃のために作られたのに、刃のためじゃないって何だよって』

「今は」

『今日、ちょっと分かった気がする』

ミラベルは、跡の先、西を見た。巨人が去っていった方角を。

『あれを押さえるために作られたのに、あれを見たら、守りたくなった。それって、刃のためじゃないよね』


「命令は、どうする」

『やだ』

「やだで済むのか」

『済まないよ。あたしの中身、半分は粒だって言ったよね。粒は本部がくれる。言うこと聞かなかったら、次からくれない』

「くれなかったら」

『減ってって、動けなくなって、そのうち、ただの金属の腕がついた女の置物になる』

ミラベルは、あっさり言った。

『二百十年生きたし、まあいいかなって』

マーロウは、帯の左側に手を入れた。

革の小袋を出した。

ミラベルの膝の上に、置いた。

「七十六ある」

ミラベルが、袋を見た。

それから、マーロウを見た。

『…それ、坊やがずっと帯に入れてたやつでしょ。坑のおじさんの箱から出てきた粒。あたし、数、分かるもん。九十九あったのが、七十六』

「取引は取引だ。今、あんたとする」

『何と引き換えに』

「あれを壊すな。それだけだ」

『…それ、あたしがやりたいことと同じなんだけど』

「じゃあ安い取引だな」

ミラベルは、袋を両手で持ったまま、動かなかった。

茶色い目から、何かがこぼれた。

金属の目からは、何も出なかった。出ないほうの目を、ミラベルは手の甲でこすった。

『…ずるいよ、坊や。そういうの、ほんとにずるい』

「全部は使うな。街に、これで買い戻すやつがいる」

『買い戻す?』

「拾い屋だ。ガス・トレヴァリアン。仲間が二人、変わった。戻す代価に、自分の体の水を全部払うと言ってる」

ミラベルが、袋を抱えたまま、口を開けた。

『…死ぬってこと?』

「死ぬってことだ」

『それ、坊やが止めるんでしょ』

「止める。だから、粒が要る」

『止められなかったら?』

「そのときは、水だ」

マーロウは、帯の右側を押さえた。布を巻いたガラスの筒が、そこにあった。

「坑の底で九年いた男が言った。変わったやつは、同じ水を一滴ずつ毎日、三か月切らさずにやれば戻る。一人に筒一本だ」

『筒、何本あるの』

「一本は帯の中だ。もう一本は、街の縫い屋に預けてある」

『…二本。二人ぶんじゃん』

「そうだ」

ミラベルは、袋を抱えたまま、しばらくマーロウを見ていた。

『坊やさぁ。粒で買い戻すのも、筒で戻すのも、両方用意してるってこと?』

「片方が駄目でも、もう片方が残る。それだけだ」

『使わないよ。一個ずつ大事に食べる』

ミラベルは、袋を胸に抱えた。

『オスカー爺さん以来だよ。あたしに何かくれた人』


ミラベルは、岩から跳び下りて、荷車のほうへ走った。

荷車の陰で、サイラスが眼鏡を拭いていた。

『ねえ眼鏡の人。本部に返事、送れる?』

「送れます。何とお送りしましょう」

『やだ、って』

サイラスは、眼鏡をかけ直した。

かけ直してから、少しだけ、口の端を上げた。目も、一緒に笑っていた。

「一字一句、そのままお送りします」


ミラベルが火のそばに戻ると、ボロが寄ってきた。

ボロは、ミラベルの足元を嗅いだ。

それから、ミラベルの左の長靴をくわえて、全力で走り去った。

『あっ!? ちょっと!? それあたしの!』

「あっはっは! やりおった!」とブリンが膝を叩いた。「本部の刃から靴を盗んだ犬は、世界でこいつだけだぞ!」

『返せーっ! 待てーっ!』

ミラベルは、片足で跳ねながら、ボロを追いかけていった。荷車の周りを三周した。

二百十年生きた本部の刃が、犬に勝てなかった。

ウィラが笑い転げた。ニコが笑った。双子が、前と後ろで同時に吹き出した。

シビルでさえ、瞬きが一度だけ、速くなった。

マーロウは、岩の上から、それを見ていた。

笑っていた。自分が笑っていることに、しばらく気づかなかった。

第六章 了