海壁

第十四章

隣の家

挿絵:隣の家

ガスの家は、市場の西の裏通りにあった。

平屋が軒を寄せ合って並んでいる通りだ。どの家も壁が薄く、隣の鍋の音が筒抜けに聞こえる。

ガスの家の隣に、小さな家があった。

戸口の前で、女の子が鍋を洗っていた。

十四くらいだった。痩せていて、黒い髪を後ろで一本に縛っている。頬にそばかすが散っていた。目は茶色で、サムと同じ形をしていた。

女の子は、ガスに気づいて、顔を上げた。

『おじさん、おかえり』

それから、ガスの後ろのマーロウを見た。

知らない顔を見る目だった。少しだけ、身構えた目だった。

マーロウは、この子の顔を見るのが怖かった。三か月前、自分は、この子に「兄貴は死んだ」と伝える役を引き受けかけた。

『ミア』とガスが言った。『ミア・ホロウェイだ。サムの妹だ』

マーロウは、頷いた。

「マーロウ・ケインだ。拾い屋だ。ガスの、…知り合いだ」

『知ってる。おじさんがよく話してる。口の悪い人でしょ』

「…ガス」

『嘘は言ってねえよぉ』


ミアは、鍋を置いた。

濡れた手を、前掛けで拭いた。

『兄ちゃんのこと?』

ガスが、答えられなかった。

マーロウが、代わりに答えた。

「そうだ」

ミアの手が、前掛けの上で止まった。

『…死んだの?』

「死んでない」

『じゃあ、なに』

マーロウは、隠さずに話した。

三か月前の夜、サムが変わったこと。自分が自分だという感じだけが消えて、ほかは全部そのままだということ。今は、街の南の蔵にいること。

それから、戻る方法があること。

毎朝一滴。三か月。

昨日の夕方、最初の一滴を与えたこと。

そのあとで、サムが、一度だけ、ガスの名前を呼んだこと。

ミアは、黙って聞いていた。

聞き終わっても、しばらく黙っていた。

それから、家の中へ走っていった。

戸口から、鍋の音がした。何かをよそう音がした。

ミアは、木の椀を一つ、両手で抱えて戻ってきた。

豆と芋の煮たものだった。まだ湯気が立っていた。

『持っていく』

「今からか」

『毎日作ってたの。三か月、毎日。帰ってきたら食べるかもしれないから』

ミアは、椀を胸に抱えた。

『捨てたことないよ。冷めたら、あたしが食べた。次の日、また作った』

ガスが、横を向いた。三本の指で、目のあたりを押さえた。


蔵の奥の部屋で、サムは、今日も背筋を伸ばして座っていた。

ミアが入っていくと、立ち上がって、頭を下げた。

『いらっしゃいませ』

ミアは、その場で止まった。

兄の口から出た言葉を、しばらく、ただ聞いていた。

それから、唇を噛んで、前へ出た。

椀を、サムの前に差し出した。

「兄ちゃん。ごはん」

サムは、椀を見た。

丁寧に受け取った。

『ありがとうございます』

匙で、一口食べた。

二口目を食べた。

三口目の途中で、匙が止まった。

サムは、椀の中を見ていた。

豆と芋。塩が少し多い。いつもの味。

『…しょっぱい』

小さな声だった。

『おまえ、また塩、入れすぎだ』

ミアの顔が、止まった。

サムは、それだけ言うと、また丁寧な顔に戻った。何事もなかったように、四口目を食べはじめた。

ミアは、泣かなかった。

泣かずに、兄の隣に座った。

「…明日は、少なくする」

サムは、丁寧に頷いた。

ミアは、兄が椀を空にするまで、ずっと隣に座っていた。


ウィラが、戸口で、それを見ていた。

マーロウの袖を、そっとつかんでいた。

『…ねぇ』

「なんだ」

『あの子、あたしより一個下だね』

「そうだな」

『あたしもさ。マーロウが三十年いなくなったら、毎日ごはん作るのかな。帰ってくるかもしれないから』

マーロウは、答えられなかった。

ウィラは、袖をつかむ手に力を入れた。

『作らないよ。作らないで、迎えに行く』


蔵を出ると、通りに兵が並んでいた。

十人。壁の兵だった。先頭に、頭を剃ったオークが立っていた。

グロム・ハルヴァーだった。

グロムは、マーロウを見なかった。

マーロウの後ろの、ドラグを見ていた。

『隊長』

「グロムか」

『本部から、壁の詰所に報せが来ました』

グロムは、手に持った紙を広げた。本部の硝子の板から写したものらしかった。

『壁の隊長、ドラグ・モーテンセンを拘束し、都へ送れ』

通りの空気が、冷えた。

ブリンが一歩前に出た。ガスが、昨日蔵の床に叩きつけた鉤を、腰から抜きかけていた。

ミラベルが、曲がった指のまま、にっと笑って首を鳴らした。

「やめろ」

ドラグが言った。

短く。いつもの声で。

「行く」

『隊長…』

「命令が来たなら、行く。おまえに、そう教えた」


ロズリンが、ドラグの前に出た。

紙束を、胸に抱えていた。

「隊長を連れていくなら、私も連れていってください」

『書記は、報せに書いてありません』

「書いてないことは、しないのですか」

『しません』

「では、書いてないことを、してはいけないとも書いてありませんね」

グロムが、瞬きをした。

ドラグが、ロズリンの肩に手を置いた。

一瞬だけだった。すぐに離した。

『書記』

「…はい」

『帳面を頼む』

ドラグは、兵たちの間へ歩いていった。縄をかけられることもなく、自分の足で。

ロズリンは、その背中を見ていた。

紙束を抱えた腕に、力が入っていた。

眼鏡を押し上げなかった。

押し上げる手が、震えて動かなかった。

第十四章 了