海壁

第二十八章

兄の翼

挿絵:兄の翼

ケイルは、ヴェスタの店に運ばれた。

縫うことなら、この街でヴェスタより上手い者はいなかった。

ヴェスタは、裂けた翼の付け根を見て、口に根をくわえたまま、長いこと黙っていた。

それから、根を床に吐いた。

『縫えん』

「なんでだ」とマーロウが訊いた。

『これは、この男の体じゃない。よその体を、この男の背中に、無理につないである。つなぎ目が、腐りかけとる』

ヴェスタは、見えているほうの目で、ケイルを見た。

『このままだと、翼の腐りが、この男の背中に回る。三日で、胸まで来る』

「外せば」

『外せば、生きる。縫えばな。外したあとの傷なら、わしが縫える』


ケイルは、寝台の上で、うつ伏せになっていた。

裂けた翼が、寝台からはみ出して、床に垂れていた。

『…外せ、か』

ケイルは、寝台の横に立っている弟を見上げた。

『あの獅子の前で、約束したな。戻ってこなかったら、根元から取って返せと』

「戻ってきた」

『戻ってきたが、飛べん』

ケイルは、少しだけ笑った。

『なら、同じことだ。取れ、ドラグ』

ドラグは、動かなかった。

『おまえしかおらん。昔から、組むのと、引くのは、おまえのほうが上手かった』

「…痛いぞ」

『知っとる』

「手加減は、できん」

『昔から、知っとる』


ヴェスタが、寝台の周りに、布を敷いた。

ロズリンが、湯を沸かした。

マーロウとブリンが、ケイルの肩と腰を押さえた。ブリンの右手は、驚くほど強かった。

ドラグが、兄の背中の、右の翼の付け根をつかんだ。

鶴嘴の傷の跡があった場所を。

兄の顔を見た。

兄は、枕に顔を押しつけていた。

『…いつでも来い』

ドラグは、引いた。

音が、した。

マーロウは、その音を、耳の奥で二度聞いた。

ケイルの声は、枕に吸われて、ほとんど聞こえなかった。

翼が、付け根から、外れた。

ドラグは、それを床に置いた。

置く手が、震えていた。

左の付け根をつかんだ。

『…もう一本だ』

兄の声は、かすれていた。

ドラグは、引いた。


ヴェスタが、すぐに縫いはじめた。

根をくわえたまま。見えているほうの目で。針が、灯りの下で、何度も光った。

ケイルは、途中で気を失った。

気を失ったまま、ヴェスタは縫い続けた。

二十針。三十針。

縫い終わって、ヴェスタは、根を吐いた。

『生きる』

それだけ言って、椅子に座り込んだ。

ドラグは、床に置いた二枚の翼の横に、膝をついていた。

灰白色の羽根に、兄の血がついていた。

ロズリンが、湯で絞った布を持ってきて、黙って、ドラグの手を拭いた。

ドラグは、拭かれるままにしていた。


翌朝、翼を運んだ。

ドラグとマーロウで、一枚ずつ抱えて。

一枚が、大人一人ぶんより重かった。

シビルは、店の外の通りに伏せて、待っていた。

二人が翼を抱えて出てくると、シビルの瞬きが、止まった。

ドラグは、シビルの前に、翼を下ろした。

マーロウも、下ろした。

二枚の灰白色の翼が、通りの石畳に、並べて置かれた。

「兄から、返せと言われた」とドラグが言った。「根元から取って、と」

シビルは、動かなかった。

金色の目で、翼を見ていた。

それから、前足を伸ばした。

爪を引っ込めた前足で、羽根の一枚に、そっと触れた。

『…重いですね』

声が、少しも崩れていなかった。

崩れていないのに、いつもより、遅かった。

『飛ばない翼は、ただの荷物だと、私は言いました』

シビルは、翼に前足を置いたまま、言った。

『訂正します』


シビルの背中の、肩甲骨のあたりに、根元から取られた傷跡が二つあった。

翼は、もう、そこにはつかなかった。つける手立てが、この街には無かった。

それでも、シビルは、翼の横に伏せたまま、しばらく動かなかった。

話を買って売る商人が、何も買わず、何も売らずに、ただ、そこにいた。

『…取ったのは、あなたですか』とシビルがドラグに訊いた。

「おれだ」

『痛かったでしょう。お兄さんは』

「痛がった」

『あなたは』

ドラグは、少しだけ、黙った。

「…痛かった」

シビルは、ゆっくり目を閉じた。

長く閉じていた。

『ありがとうございました』

開けたとき、声は、いつもの声に戻っていた。

『受け取りました。確かに』

第二十八章 了