海壁

第十一章

海へ

挿絵:海へ

金属は、穴の縁から、内側へ伸びていた。

這うように。ゆっくりと。けれど、止まらずに。

穴の中を流れていく光の川が、少しずつ、細く押しつぶされていった。

『本部だ』

ミラベルが、壁の上から降りてきていた。

着地したまま、穴の縁を見ていた。

『この壁、本部の体なんだよ。部屋の壁とおんなじ。だから動かせる。あいつが、穴を閉じてる』

「止められないのか」

『止めるには、同じもんで押し返すしかない』

ミラベルは、自分の左腕を見た。

肘から先の、錆びない金属の腕を。

『…あるじゃん。ここに、同じもん』


ミラベルは、穴の縁に、左腕を突っ込んだ。

閉じてくる金属と、閉じてくる金属のあいだに。

甲高い音がした。

金属と金属が、互いを押し合う音だった。

ミラベルの腕が、震えた。肘の継ぎ目から、黒いものがにじんだ。粒のような、光を返さない液。

『っ、…あー、これ、けっこう来るねぇ』

「ミラベル!」

『いいから! 坊やは、あの子たち見てて!』

穴は、狭まるのを止めていた。

止めていたが、少しずつ、押し返されていた。ミラベルの腕が、指一本ぶんずつ、奥へ押し込まれていく。

黒い液が、地面にぱたぱたと落ちた。落ちる前に固まって、粒になって転がった。

光の川は、まだ流れていた。

細くなっていた。それでも、流れていた。

巨人の、最後の部分が、穴の前に来ていた。

残りは、もう荷車一台分くらいしかなかった。中の星も、数えられるほどしか残っていなかった。

ニコが、穴の前にしゃがんだ。

『…もうちょっとだよ』

小さな声だった。

『もうちょっとで、海だよ』

最後の水が、穴の中へ入っていった。

星が一つ、ニコの鼻先で、ちかりと光った。

それから、消えた。穴の奥へ。


ミラベルが、腕を引き抜いた。

穴が、閉じた。

音もなく、あっという間に。そこに穴があったことが、嘘みたいだった。石の剥がれた、平らな金属の壁があるだけだった。

ミラベルは、尻もちをついた。

左腕を、胸に抱えていた。

金属の指が、二本、曲がっていた。人差し指と中指が、あり得ない方向に。

「…おい」

『平気、平気。…じゃないか。ちょっと痛い』

ミラベルは、曲がった指を見て、笑った。

『本部にしてやられた。あいつの体と、あたしの腕、同じもんだからさ。力比べしたら、向こうのほうが、でかかった』

「直るのか」

『分かんない。直してくれる技師、二百年前に死んじゃったし』

ミラベルは、帯から小さな袋を出した。マーロウが渡した袋だった。

一粒、口に入れた。噛んだ。

肘の継ぎ目の黒いにじみが、止まった。

指は、曲がったままだった。

『…でも、通ったね』

「通った」

『坊やの言ったとおりにした。偉い?』

「…偉い」

ミラベルは、目を丸くした。

それから、両手で顔を覆った。曲がった指のほうも。

『うわぁ。うわぁ。坊やに褒められた。二百十年で一番うれしい』


壁の上から、声がした。

『…海が』

グロムの声だった。

銃を失くした兵たちが、見張り塔の縁に並んで、海のほうを見ていた。

誰も、こちらを見ていなかった。

『海が、光ってる』

マーロウは、縄梯子をつかんだ。

登った。ウィラが続いた。ニコが続いた。ドラグが、ロズリンに手を貸して続いた。ガスが三本の指で、ブリンが右手一本で続いた。

二十二メートル。

壁の上に出た。

海があった。

百メートル先の、禁止区の白い地面の向こう。

黒い、夜の海。

その海の、壁のすぐ前から、光が広がっていた。

星だった。

何十万の星が、海の中で、ゆっくりと散らばっていた。

流れ込んだ場所から、丸く、丸く、広がっていく。波に乗って、沖へ。左へ。右へ。

黒い海が、星空になっていった。

上にも星があった。下にも星があった。

どちらが空なのか、分からなかった。


誰も、しばらく何も言わなかった。

兵たちも。グロムも。ガスでさえ。

ニコが、壁の縁に手をついていた。

『…ばいばい』

小さな声だった。

『ばいばい。痛くない? もう痛くない?』

海の星が、一度だけ、いっせいに瞬いた。

風のせいかもしれなかった。波のせいかもしれなかった。

ニコは、それを見て、泣きながら笑った。

ウィラが、ニコを後ろから抱きしめた。

「…痛くないって。言ってるよ、きっと」

『うん』

「ほら。あんなにきれい」

『うん』

ウィラの頬も、濡れていた。

マーロウは、二人の後ろに立っていた。

何も言わなかった。

言うことが、何も要らない夜だった。


足の下で、音がした。

壁の音だった。

さっきの低い唸りとも、甲高い軋みとも違う。平らな、抑揚のない音。

音が、言葉になった。

『刃』

壁が、喋っていた。

足元の金属から。壁の上に立つ全員の、足の裏から。

孤独の大地の、あの部屋で聞いたのと、同じ声だった。

『命令違反を、二件、記録しました』

兵たちが、顔色を変えて後ずさった。グロムが、銃のない手を腰に当てた。

ミラベルは、壁の下にいた。曲がった指を抱えたまま、上を見上げていた。

「…はいはい。聞いてるよ」

声は、ミラベルの返事を待たなかった。

『一〇六番』

マーロウの背中が、冷えた。

『約束の日まで、あと八十九日です。期限までに戻ってください』

それだけ言って、壁は黙った。

また、ただの壁になった。


風が吹いた。

海の星が、揺れていた。

マーロウは、振り返らなかった。

振り返らなくても、分かっていた。

すぐ後ろで、ウィラが、ニコを抱きしめたまま、こちらを見ていた。

『…マーロウ』

声が、小さかった。

本心を言うときだけ小さくなる、あの声だった。

『約束って、何の?』

第十一章 了