海壁

第十三章

煮詰めた水

挿絵:煮詰めた水

シビルの蔵は、街の南の端にあった。

石造りの、窓のない建物だった。扉が一つ。中は暗く、ひんやりしていた。棚が天井まであって、紙の束と、瓶と、木箱が、ぎっしり詰まっていた。

話を買って売る商人の、倉庫だった。

その奥の部屋に、オットとサムがいた。

二人並んで、壁際の椅子に座っていた。背筋を伸ばして、膝の上に手を揃えて。

マーロウたちが入ると、二人は同時に立ち上がって、同じ角度で頭を下げた。

『いらっしゃいませ』

ガスが、戸口で足を止めた。

三か月、毎晩見てきた光景のはずだった。それでも、ガスの喉が一度、鳴った。


マーロウは、机の上に、ガラスの筒を二本置いた。

一本には、金具に数字が打ってある。四千百二十。

もう一本は、布を巻いたままだ。坑の底で汲んで、二か月、帯の中に入れたまま、一度も開けなかった一本。

「坑の底に、九年いた男がいた。そいつが言った」

マーロウは、シビルの金色の目を見た。

「変わったやつは、同じ水を、一滴ずつ毎日、三か月切らさずに与えれば戻る。一人に筒一本」

シビルの瞬きが、止まった。

『…その方法は、知りませんでした』

「あんたでも知らないことがあるのか」

『たくさんあります。ですから眠れません』

シビルは、二本の筒を見比べた。

『二本あります』

「二人いるからな」

ガスが、戸口から一歩、中へ入った。

『…待てよ。そいつで、二人とも戻るってのか』

「一本で一人だ。だから坑の底で、一本増やした」

『いつ』

「二か月前だ。おまえに、どっちか一人を選ばせたくなかった」

ガスの口が、開いて、閉じた。

三本の指で、戸口の柱をつかんだ。

それから、ふと、顔を上げた。

「…待てよ、婆さん。海の水なら、壁の向こうにいくらでもあるじゃねえか。なんで、その筒じゃなきゃいけねえんだ」

『壁の向こうの海では、戻りません』

シビルは、机の上の筒を、前足の爪の先で示した。

『深い海の暗がりには、目に見えないほど小さな生き物が棲んでいます。一度も日の光を浴びたことのない水の中でしか、生きられない生き物です。日に当たると、一日ほどで死にます』

『壁の向こうの海にも、小さな生き物はいます。ですが、日の光に慣れた、別の種類です。弱い。ですから、浅い海の水では十一日かかります。暗がりの生き物が生きている水なら、ずっと強い。煮詰めれば、なおさらです』

マーロウは、蔵の中を見回した。

窓が、一つもなかった。

「…この蔵に窓がないのは、そのためか」

『はい』

マーロウは、机の上の二本の筒を見た。一本は、ヴェスタが麻の反物の中に縫い込んでいた。もう一本は、布で巻いて、帯の中に入れてきた。どちらも、ずっと日の光を見ていない。

「巨人が入ったあとの海は、どうなんだ。あいつは、深い海から来たろ」

『深い水が、混ざりはじめています。ですが、日に当たる上のほうから、暗がりの生き物は死んでいきます。どれだけ残っているのか、誰にも分かりません』

『確かなのは、この二本だけです』


ガスは、シビルに向き直った。

「おい、獅子の婆さん。もう一つだけ教えろ」

シビルが、ゆっくり首を傾けた。

『何でしょう』

「あいつらは、一晩で変わった。坑の男は、海の水じゃ一晩じゃ変わらねえって言ったそうだな。じゃあ、誰がやった」

シビルは、少しも間を置かなかった。

『私です』

蔵の中の空気が、止まった。

『深い海の水を、百分の一まで煮詰めたものを、一滴ずつ、二人の飯に混ぜました。十一日かかるものが、一晩で来ます』

「…なんでだ」

『あの船の積み荷の中身を、墜ちる前に買っていました。鉄の箱の中に、深い海の水があることを知っていました。あなたの仲間が最初に船にたどり着くことも』

シビルの声は、少しも崩れなかった。

『箱を、私のところへ持ってこさせたかった。二人を変えれば、あなたは私のところへ来る。来れば、取引ができる。そう考えました』

「待てよ。おまえ、戻し方を知らなかったんだろ」

『知りませんでした』

「知らねえで、何を売る気だったんだよ」

シビルは、金色の目でガスを見ていた。

『持っていないものは、売りません』

根の匂いのする蔵の中で、その声だけが平らだった。

『売るつもりだったのは、探すことです。何年かかっても探す、という約束です。その代わりに、あの箱と、あの水がどこから来たのかを買うつもりでした』

「…探す約束を、売る」

『商人が売れるものは、持っている物か、これからする仕事のどちらかです。私が持っていたのは、後者だけでした』

ガスは、口を開けたまま、しばらく動かなかった。

「だったら、最初からそう言えよ。二人を変えなくたって、おれは箱を持っていったぞ」

『あなたは、拾い屋です』

シビルは、そこで初めて、ほんの少しだけ目を伏せた。

『拾い屋は、拾ったものを、いちばん高く買う相手に売ります。私は、いちばん高い相手ではありませんでした』

「…だから、値を上げたってのか。人を二人使って」

『はい』

一言だった。

言い訳を、一つも足さなかった。


ガスの右手が、腰の鉤に伸びた。

三本の指が、柄を握った。

マーロウは、止めなかった。

止める理由を、探しても見つからなかった。

ガスは、鉤を抜いた。

シビルは、動かなかった。逃げもせず、構えもせず、金色の目でガスを見ていた。

『許してください、とは言いません』

「言われても許さねえよ!」

ガスの声が、蔵の棚を震わせた。

「二十年だぞ! オットは十七の時から一緒だったんだぞ! サムの妹は、三か月、兄貴の飯を作って待ってんだぞ! それを、箱ひとつのために!」

鉤が、振り上げられた。

振り下ろされなかった。

ガスは、鉤を振り上げたまま、震えていた。

それから、鉤を床に叩きつけた。

石の床に、火花が散った。

ガスは、その場にしゃがみこんだ。三本の指で、顔を覆った。

『…戻るんだな。ほんとに、戻るんだな』

「戻る。三か月かかる」

『三か月なんか、なんでもねえよぉ…』

語尾が、潰れた。


シビルが、口を開いた。

『代価は、いただきません』

マーロウは、シビルを見た。

『二人の分は、私の借りです。借りを返すのに、代価を取る商人はいません』

『それに、探す約束も、売れなくなりました』

シビルは、机の上の二本の筒を見た。

『探す前に、坑の底にいた方が、答えを持っていました。私は、何も売らずに済みました』

「損が嫌いなんじゃなかったのか」

『嫌いです。ですが、借りを残すのは、損より嫌いです』

シビルは、前足で、二本の筒をマーロウのほうへ押し戻した。

『一日一滴。朝がいいでしょう。二人は、私がここで預かります。毎朝、あなたたちの誰かが来て、与えてください。私の手からでは、意味がないでしょうから』

「なんでだ」

『名前を呼ぶ人の手から与えるほうが、戻りが早い気がします。確かめたことはありません。ただの勘です』

シビルが「勘」という言葉を使うのを、マーロウは初めて聞いた。

『それとは別に、一つ取引をお願いします』

「言え」

『東の話を、全部売ってください。孤独の大地のこと。本部のこと。坑の底のこと。あなたが見て、聞いたことを、全部』

「値段は」

『あなたが決めてください。私は、いくらでも払います』


夕方、ガスがサムの前にしゃがんだ。

筒の栓を抜いた。四千百二十の数字が打ってあるほうだった。

サムの唇に、一滴、落とした。

隣でウィラが、オットの唇に、もう一本から一滴、落とした。

二人は、何も変わらなかった。

いつもの顔で、いつもの角度で、頭を下げた。

『ありがとうございました』

ガスは、それを聞いて、笑った。笑おうとして、うまく笑えなかった。

「…明日も来るからよ。明後日も。三か月、毎日来るからな、サム」

サムは、丁寧に頷いた。

それから、少しだけ、首を傾げた。

ガスの右手を見ていた。

指が三本しかない手を。

『…ガス』

小さな声だった。

丁寧な言葉が、何も付いていなかった。三か月前までと、同じ呼び方だった。

ガスの体が、固まった。

『指、どうした』

蔵の中が、静まり返った。

サムは、それだけ言うと、また丁寧な顔に戻って、膝の上に手を揃えた。

何も覚えていないような顔だった。

ガスは、動かなかった。

動けなかった。

それから、サムの膝に額を押しつけて、声を上げて泣いた。

二十年ぶんの声だった。

第十三章 了