第十九章
海の上の刃

二番は、濡れた白い地面に降りて、そのまま海へ走った。
波打ち際で止まらなかった。
海の上を、走っていた。
ミラベルが巨人の水面を走ったのと同じ走り方だった。波の頭を一歩ずつ蹴って、沖へ。星の中へ。
刃を、振った。
海面に、線が入った。
線に沿って、星が消えた。
消えたところの海が、黒くなった。黒い粒が、ばらばらと波に散って、沈んでいった。
二番は、もう一度振った。また一本、星が消えた線が入った。
ニコが、壁の上で、膝をついた。
両手で耳を押さえた。
『痛い…痛いって、言ってる…すごく…』
声が、震えていた。
『やめて。やめてよぉ…』
ミラベルが、壁の縁に立った。
肩の布が裂けたまま。曲がった指を胸に抱えたまま。
『行ってくる』
「その体でか」
『この体で』
「さっき負けたろ」
『負けた。でも、あいつ、止まったもん。一瞬』
ミラベルは、振り返って、にっと笑った。
『坊や。あたしが帰ってこなかったら、袋の粒、坊やにあげる。七十四個。灯り七十四個ぶんだよ』
「帰ってこい」
『うわぁ。今のもう一回言って』
「帰ってこいって言ってんだよ」
『あっはは。行ってきます』
ミラベルは、壁を蹴った。
マーロウは、グロムを振り返った。
「縄梯子を、海側に下ろせるか」
グロムは、一瞬だけ、迷った顔をした。
それから、兵に向かって顎をしゃくった。
『下ろせ。海側だ』
「副長、海側は禁止区です」
『知っている。隊長が戻ったら、おれが書類を書く』
兵が、縄梯子を海側へ投げ下ろした。
二十二メートル。縄梯子の端が、濡れた白い地面に届いた。
マーロウは、梯子に足をかけた。
ウィラが、横に来た。
「おまえは残れ」
『やだ』
「濡れた地面に入るな。あそこは、水が足首の上まで溜まってる。それで十一日の時計が始まる」
『知ってる。でも、ニコが行くって言ってる』
振り返ると、ニコが、壁の縁で立ち上がっていた。耳を押さえたまま。
『…ぼく、もう飲んでるから。海の水。だから、ぼくは平気』
ウィラは、ニコの手を取った。
『だから、あたしがニコと行く。ニコは、あたしの弟分だから』
マーロウは、何か言いかけて、やめた。
この子に何を言っても無駄なのは、三年前から知っていた。
「…水に触るなよ。絶対に」
『うん』
禁止区の白い地面は、壁の根元から十歩ぶんだけ、まだ乾いていた。
三か月前、マーロウはここを歩いた。一面が乾いていて、靴の下で白い粉が舞った。
今は、十歩から先が濡れていた。
ウィラは、乾いたところの端で止まった。ニコの手を握ったまま。一歩も、濡れたほうへ出なかった。
マーロウだけが、濡れた地面へ踏み出した。足首まで沈んだ。この体は、海の水に触れていたほうが、かえって保つ。
沖で、刃の音がしていた。
金属と金属が当たる音。ミラベルと二番が、海の上で打ち合っていた。星の海の上を、白い影と、継ぎはぎの影が、跳びながら。
二番の刃が海面をかすめるたびに、星が一列、消えた。
ミラベルは、それを防ごうとしていた。二番と海のあいだに、自分の体を入れようとしていた。
防ぎきれていなかった。
ミラベルの刃は一本で、指が二本曲がっていた。
マーロウは、波打ち際で立ち止まった。
足元の水に、黒い粒が一つ、打ち上げられていた。二番が斬ったところから流れてきた粒だった。
マーロウは、それを拾わなかった。
見ていた。
粒は、濡れた砂の上で、ゆっくり透明になっていった。一滴の水に戻っていった。
海の中の、あいつのそばにあるから。
マーロウは、自分の手を見た。
自分の血は、水を粒にする。
あいつは、粒を水にする。
「…逆だ」
口から、声が漏れた。
シビルが言ったとおりだった。三百年、誰も見たことのない向き。
一がいた坑の底で、毎朝百回、水を粒にしていた。粒は沈んで、あいつに食べられて、水に戻った。水位は、毎朝下げても、夜のうちに戻った。
行って、戻って。
行って、戻って。
二人で、ずっと、同じ水を回していた。
「…回るんだ」
後ろで、ウィラが叫んだ。乾いたところの端から。
『何が?』
「水が。おれが粒にして、あいつが水に戻す。どっちかだけなら、水が減るか、粒が減る。両方なら」
マーロウは、星の海を見た。
「減らない」
沖で、ミラベルが、海に落ちた。
二番の刃に弾かれて、星の海の中へ、背中から。
しぶきが上がった。星が、ミラベルの周りで、ぱっと散った。散った星は、ミラベルの体には寄らず、周りに集まった。
ウィラが、叫んだ。
二番が、海面に降り立った。ミラベルが沈んだあたりを見下ろして、刃を二本、振り上げた。
その刃が、振り下ろされる前に、ミラベルが浮かんできた。
海の中の星が、ミラベルの体の周りに、集まっていた。
沈まないように、下から支えているように、マーロウには見えた。
第十九章 了