海壁

第二十二章

桶の列

挿絵:桶の列

一日目の朝、禁止区に、人が並んだ。

壁の根元から、海の波打ち際まで。濡れた白い地面の上に、一列に。

並んでいるのは、海の水に触れても平気な者だけだった。

ブリンがいた。オークの兵が、グロムを先頭に二十人いた。ミラベルがいた。ニコがいた。

残りの十人は、壁の上で見張りに立った。

それから、オットとサムがいた。


オットとサムを連れてきたのは、シビルだった。

『二人とも、一度変わっています。海の水に触れても、これ以上は何も起きません。戻ったあとも、海のそばで毎日触れているかぎり、時計は進みません』

「…いいのか、それで」

『二人に訊きました』

シビルは、並んだ二人のほうへ顔を向けた。

『手伝ってくださいますか、と。二人とも、はい、と言いました』

変わった人間は、言われたことを、言われたとおりにやる。

一番楽な生き方をする、と、シビルは灯台跡で言っていた。

楽な生き方をする二人が、今、桶を持って並んでいた。


列に並ぶ前、マーロウは、ミラベルの左腕を見た。

「おまえの刃で海を斬れば、桶はいらないんじゃないか」

『できるよ。斬ったとこの水は、粒になる』

ミラベルは、曲がった指の手で、左腕の線をなぞった。

『でもね、刃で粒を一つ作ると、あたしのお腹の粒が、一つ燃えるの。作ったぶんだけ、食べたぶんが減る。差し引き、何も残らない』

「壁は」

『壁も同じ。本部が溜めた粒を燃やして、動いてる。巨人を削ってたときも、本部が燃やしてた。…本部が動かさなきゃ、壁は、ただの硬い金属』

坑の底の床も、錆びない金属だった。一が九年、手を入れ続けた水は、あの床に触れても、一粒にもならなかった。

『何も燃やさないで粒を作れるのは、坊やの血だけ。使い切られないって、そういうこと』

ミラベルは、にっと笑って、空の桶を四つ抱えた。

『だから、坊やは手を入れる係。あたしは、運ぶ係』


列の端、波打ち際に、マーロウが立った。

手のひらを、鉤で切った。

海の水を汲んだ桶が、列の向こう端から、手から手へ渡ってくる。

マーロウは、届いた桶に、切った手を入れる。

桶の中の水が、黒くなって、消えて、底に粒が一つ転がる。

粒を、横の籠に入れる。

空になった桶が、列を戻っていく。

次の桶が来る。

手を入れる。

次の桶。

手を入れる。

歩かなくていい分、速かった。

坑の底の一は、水際まで歩いて、手を入れて、戻っていた。それが、二時間で百。

桶が向こうから来るなら、手を入れるだけでいい。

一時間で、百を超えた。


壁の上から、ウィラが見下ろしていた。

海の水には触れられない。だから、壁の上にいた。

壁の上には、触れられない者たちが集まっていた。

ニムは、籠の粒を数えていた。ロズリンが、その数を帳面に書いていた。ヴェスタが、ガスの三本の指の手に、桶の取っ手を握りやすくする革を巻いていた。

ガスは、壁の上から縄で桶を下ろす役だった。三本の指で、縄を手繰っていた。

『ほらよぉ! 次ぃ!』

ミアが、ガスの横で、縄の端を持っていた。

シビルは、壁の下の乾いたところで伏せて、列全体を見ていた。

サイラスは、硝子の板に、ロズリンが書いた数字を写していた。本部に、送るために。


昼を過ぎたころ、オットが桶を落とした。

重い桶だった。変わった人間は、疲れたと言わない。疲れても、言われたとおりに運び続ける。

落ちた桶の水が、白い地面に広がった。

オットは、丁寧に頭を下げた。

『申し訳ございません』

隣のサムが、オットの桶を拾った。

拾って、オットの手に戻した。

それから、ぼそっと言った。

「…重いなら、重いって言え。昔から、おまえはそうだ」

オットが、サムを見た。

サムは、もう丁寧な顔に戻って、次の桶を受け取っていた。

壁の上で、縄を持っていたガスの手が、止まった。

ミアが、ガスの袖を引いた。

「おじさん。今の」

『…聞こえたよぉ』

ガスの声が、潰れていた。

『聞こえたよぉ、ミア』


夕方、マーロウの手が止まった。

止めたのではなかった。止まった。

手のひらの傷は、切るたびにすぐ塞がる。塞がるたびに、また切る。千回を超えたあたりで、腕が、上がらなくなった。

痛みはなかった。痛みを感じない体だ。

ただ、腕が、言うことをきかなかった。

マーロウは、波打ち際に膝をついた。

ミラベルが、四つ抱えていた桶を放り出して、走ってきた。

『坊や!』

「…平気だ」

『平気な顔じゃないよ』

壁の上で、ロズリンが、帳面を閉じた。

数字を、読み上げた。

『今日、作った粒、千二百十一』

壁の上から、どよめきが起きた。一人なら一日四百のはずだった数の、三倍だった。

ロズリンは、続けた。

『海の水位。朝から、手のひら半分、上がりました。壁の灯り。今日、三十一消えました』

どよめきが、止んだ。

『千二百でも、足りません。あいつは、四千八百です』


夜になった。

マーロウは、壁の根元の乾いたところに、仰向けになっていた。

腕が、まだ上がらなかった。

ウィラが、壁から降りてきて、隣に座った。

何も言わなかった。

マーロウの腕を、そっと自分の膝に乗せて、さすっていた。

痛くない腕を。

「…痛くないって、言ってるだろ」

『知ってる』

「じゃあなんでさする」

『知ってるから、さすってんの』

ニコが、波打ち際から、歩いてきた。

膝まで、濡れていた。

マーロウの前で、止まった。

『…ぼく、頼んでみる』

「何を」

『あいつに。ゆっくりにしてって』

ニコは、星の海を振り返った。

『だって、マーロウがこんなに頑張ってるのに、あいつ、急ぎすぎだよ』

第二十二章 了