第二十五章
空船、ふたたび

二日のあいだに、街は支度をした。
桶の列は、止めなかった。
止めれば、釣り合いが崩れる。崩れれば、壁が海を壊す。本部は、そう言った。だから、戦の支度をしながら、朝は桶を回した。
グロムは、禁止区の泥の中から、銃を掘り出していた。
十一日前、ミラベルが壁の上から海側へ放り投げた銃だった。二十丁あった。泥を洗って、油を差して、壁の上に並べた。
『弾は、残っていますか』とロズリンが訊いた。
「一丁に、三発ずつ」とグロムが答えた。「全部で、牛六十頭ぶんです」
『使い道は』
「空船の鎖を巻き上げる、巻き取りの歯車を狙います。人は撃ちません。隊長が、そう言いました」
二日目の夕方、南の空が、暗くなった。
星が欠けた、と最初に言ったのは、ウィラだった。
三つ、欠けていた。
黒い影が、三つ。並んで、南から、海の上を滑ってきた。
どれも、三百メートルあった。腹から、白い光が漏れていた。
先頭の一隻が、海の上で止まった。残りの二隻が、少し後ろで止まった。
先頭の腹から、翼が一つ、降りてきた。
灰白色の翼だった。左右で、八メートル。
右の付け根に、古い傷の跡があった。羽ばたくたびに、右が、ほんのわずかに遅れた。
翼は、壁の上に、降りた。
ドラグの、十歩前に。
ケイル・モーテンセンは、翼をたたんだ。
弟を見た。
それから、壁の上の人間たちを、一人ずつ見た。マーロウを。ミラベルを。桶の列から上がってきた、両腕が金属の女を。
最後に、壁の下の乾いたところで伏せている、翼のない獅子を見た。
しばらく、そこで目が止まった。
『…あんたか』
シビルは、瞬きの遅い金色の目で、見上げていた。
「飛べていますね」
『…ああ』
「右が、少し遅れています」
『弟にやられた』
「存じています。聞きました」
ケイルは、何か言いかけて、やめた。
それから、弟のほうへ向き直った。
「用件を言え」とドラグが言った。
『二つだ』
ケイルの声は、ドラグと同じ高さだった。
『一つ。二人目の神の血を、都へ』
マーロウのほうを、見なかった。見なくても、全員に分かった。
『二つ。この海の、星を。空船の槍で、中の粒を吸い上げる。水は、海に捨てていく』
壁の上が、ざわめいた。
「断ったら」
『海を、干す。三隻の槍を、全部使ってな』
「代わりに、何を出す」
ケイルは、先頭の空船を、顎で指した。
船の腹の縁に、人影が一つ、立たされていた。
縄で、手首を縛られていた。
白い髪。痩せた体。
マーロウの顔だった。
『あの男を、返す』
マーロウの喉が、鳴った。
一だった。
二十七日ぶりに見る顔だった。畑の真ん中で、自分で横になって、管をつながせた男。
船の縁で、一が、こちらを見ていた。
何か叫んでいた。風で、切れ切れにしか届かなかった。
『来るな…来るなよ…おい…』
二回、言っていた。
「畑はどうした」とマーロウは叫んだ。「あいつがいなかったら、二万人が」
ケイルは、少しだけ目を伏せた。
『二人目が来れば、畑は、また光る』
「おれを畑に植える気か」
『都は、そう考えている』
「あんたは」
ケイルは、答えなかった。
代わりに、弟を見た。
『…おれは、一人でいいと言った。神の血は、一人いれば畑は光る。都は、二人とも欲しいと言った。交換の話も、都が決めた』
「じゃあ、交換は本当か」
『おれは、本当にするつもりで来た』
ケイルは、後ろの二隻を振り返った。
『あの二隻が、同じつもりかどうかは、知らん』
ケイルは、翼を広げた。
『夜明けに、禁止区の真ん中で、交換する。二人目の神の血が歩いてくれば、あの男を降ろす』
灰白色の翼が、夕闇の中で、骨の色に見えた。
『来なければ、夜明けと同時に、槍を下ろす』
ケイルは、壁を蹴って、飛んだ。
右が遅れる羽ばたき方で、先頭の空船へ戻っていった。
その夜、ニムの店に、また全員が集まった。
マーロウは、机の前に立っていた。
「おれが行けば、一は戻る。おれが行かなければ、海が干される」
『おまえが行ったら、釣り合いが崩れる』とドラグが言った。『本部が、海を壊す』
「分かってる」
『どっちにしても、海が終わる』
「分かってる」
店の中が、静かになった。
ウィラが、マーロウの袖をつかんでいた。
何も言わなかった。
言わずに、ただ、つかんでいた。
一生いる、と言った夜から、まだ二日しかたっていなかった。
ミラベルが、戸口から言った。
『ねえ坊や。行くふりって、できる?』
「ふり?」
『坊やが歩いてく。あっちがおじさんを降ろす。真ん中まで来たところで、あたしとベルで、三隻の槍の鎖を全部切る』
ベルが、ミラベルの横で頷いた。
『二人なら、切れます。刃が、三本ありますから』
「ベルは二本で、ミラベルは一本だろ」
『はい。三本です』
ニコが、手を挙げた。
『ぼく、海にお願いする。あいつに、空船を押し返してって』
「できるのか」
『分かんない。でも、頼んでみる。あいつ、ぼくの言うこと、聞いてくれたから』
グロムが、壁の上の銃を思い出すように言った。
『歯車は、こちらで撃ちます。牛六十頭ぶん、使い切ります』
ガスが、三本の指で鉤を握った。
『おれは、何すりゃいい』
「おまえは、壁の上で縄を持ってろ」
『またかよぉ!』
「一が落ちてきたら、引き上げる縄だ」
ガスは、少し黙った。
それから、鉤を腰に戻した。
『…それは、大事な縄だなぁ』
最後に、ウィラが言った。
袖をつかんだまま。
『マーロウ』
「なんだ」
『行くふり、だよね』
「ふりだ」
『嘘じゃないよね』
マーロウは、ウィラを見た。
嘘をつかれるのが嫌いな子の目を。
「嘘じゃない。ふりをしに行く。本当に、ふりだ」
ウィラは、しばらくマーロウを見ていた。
それから、袖から手を離した。
『…なら、いい』
第二十五章 了