第三章
翼のない獅子

シビルは、火のそばに伏せた。
伏せても、背の高さがマーロウの胸まであった。灰白色の毛に、道中の砂がついていた。三つ編みの先が少しほつれていた。
それ以外は、灯台跡で会ったときと何も変わらなかった。
ミラベルが、マーロウの袖を引いた。
『ねえ坊や。あの獅子、坊やの何?』
「何でもない。取引の相手だ」
『取引の相手に、お久しぶりですって言う? しかもフルネームで?』
「あいつは誰でもフルネームで呼ぶ」
『ふーん。ふーーん』
ミラベルは、シビルの前にしゃがみこんで、金属の目でじっと見た。
シビルは、瞬きの遅い金色の目で、見返した。
「…本部の刃ですね。お噂は、話を売る人たちから何度か」
『へえ、あたし有名? あっはは。で、坊やとはどういう関係?』
「取引の相手です」
『二人とも同じこと言うんだ。怪しいなぁ』
ウィラは、シビルが来てから、ずっとマーロウの背中に隠れていた。
シビルが、ウィラを見た。
『ウィラ・ドーセット。あなたの石の板は、私の帳面に綴じてあります』
ウィラの顔が、火より赤くなった。
「よ、読まないでよ!? 絶対読まないでよ!?」
『読みません』
「ほんとに!?」
『あなたが読んでいいと言うまで、誰にも読ませません。私も含めて』
「…あんた、書いたとき読んでたじゃん」
『はい。一度だけ。あれは受け取りの確認です。二度目は読んでいません』
ウィラは、しばらくシビルを睨んでいた。
それから、小さく言った。
「…ならいい」
マーロウは、その会話を聞いていないふりをした。
聞いていないふりをしながら、小屋の陰でウィラが言った一行を思い出していた。あたしが石に彫ったのと、ほとんど同じなんだけど。
ドラグが、火の反対側から立ち上がった。
シビルの前まで来て、止まった。
しばらく、何も言わなかった。
「…あんたの翼を見た」
シビルの瞬きが、止まった。
『どこで、でしょうか』
「南だ。共和国で。おれの兄の背中にあった」
火が、ぱちりと鳴った。
「兄は、共和国の将軍をやっている。翼を持っているのは、あいつだけだ。だから将軍になれた」
『…そうですか』
「組み伏せた。付け根をつかんだ。引けば取れた。引かなかった」
ドラグは、自分の手を見た。
「すまん」
シビルは、しばらく黙っていた。
それから、訊いた。
『…飛べていましたか。あの人は』
「飛んでいた。右が遅れていた。おれが鶴嘴を刺した」
『そうですか』
シビルは、ゆっくり目を閉じた。
いつもの瞬きより、ずっと長く閉じていた。
開けたとき、声は何も変わっていなかった。
『飛べているなら、よかったです。飛ばない翼は、ただの荷物ですので』
「兄から伝言がある。いつか返す、と。いつかは知らん、と」
『では、いつか受け取ります。いつかは知りませんが』
ロズリンが、火のそばで、筆を止めていた。
止めたまま、シビルの顔を見ていた。記録係が、書くのを忘れていた。
「街はどうなってる」とマーロウが訊いた。
いちばん訊きたくて、いちばん訊くのが怖かったことだった。
『私が街を出たのは、二か月半ほど前です。あなたが東へ行ったと聞いて、後を追いました。話を買いながら来ましたので、遅い旅でした。私が出たときには、あれはまだいませんでした。街は、何も知らないはずです』
「ガスは」
シビルは、少しだけ首を傾けた。
『来ました。約束の十日目に。蔵の前に、朝いちばんに立っていました』
マーロウは、息を止めた。
『体の水を全部払う、と言いました。二人で一人だから安い、と』
「…それで」
『断りました』
マーロウは、息を吐いた。吐いてから、吐いたことに気づいた。
「なんで」
『あなたが東へ行ったと聞いたからです。東から何を持ち帰るかで、代価が変わるかもしれない。変わるなら、今払わせるのは損です。私は損が嫌いです』
「ガスは、なんて言ってた」
『「なんだよぉ」と言いました。三回』
マーロウは、笑った。
笑うつもりはなかった。勝手に出た。
『私が街を出たときには、拾い屋に戻っていました。指が三本でも、鉤は振れるそうです。毎晩、オットとサムのところへ行って、同じ話を三回して帰っていたそうです』
「二人は」
『変わったままでした。丁寧に返事をします。ガス・トレヴァリアンの話を、三回とも最後まで聞いてから、ありがとうございました、と言うそうでした』
マーロウは、帯の右側に手を当てた。
布を巻いたガラスの筒が、そこにあった。
翌朝、ニコが、跡の縁に膝をついていた。
両手で水をすくって、飲んでいた。
ウィラが、その横にしゃがんでいた。
「ちゃんと飲んだ?」
『飲んだ』
「何口?」
『…三口』
「五口って決めたでしょ。あと二口」
『しょっぱいんだもん』
「しょっぱくても飲むの。はい、あと二口」
ニコは、口をとがらせて、あと二口飲んだ。
ウィラは、ニコの頭をぽんと叩いて、立ち上がった。
マーロウは、荷車の横で、それを見ていた。
自分も、跡の水に手を浸していた。荷台の筒を使う代わりにだ。跡がある限り、筒は減らない。
シビルが、横に来た。
『あの子は、あなたに似てきましたね』
「似てない」
『言い方がです。五口って決めたでしょ。あれは、あなたの言い方です』
マーロウは、答えなかった。
シビルは、跡の先を、西を見ていた。
『一つ、見たものをお伝えします。あれとすれ違ったあと、跡を三日たどりました。三日目の朝、跡の縁に、これが生えていました』
シビルは、前足の爪の間に挟んでいたものを、そっと地面に置いた。
小さな、緑の芽だった。
双葉が二枚。指の先ほどの大きさ。
ウィラが、振り返った。
振り返って、芽を見て、そのまま動かなくなった。
「…草?」
『草です。光らない草です。粒ではなく、水で育つ草です』
ウィラは、しゃがんで、芽に顔を近づけた。
触らなかった。触ったら壊れる気がしたらしかった。
「…あたし、光らない草、生まれて初めて見た」
声が、少しだけ震えていた。
第三章 了