第八章
濡れた夜

最初に動いたのは、壁の兵だった。
東門の見張り台に、兵が並んだ。銃を構えていた。帝国の銃だ。弾一発で牛一頭。この街の人間が一生かかっても一発買えない値段の弾が、何十発も込められていた。
『撃つな!』とドラグが叫んだ。
遅かった。
銃声が、夕方の空に響いた。
弾は、巨人の体を、通り抜けた。
水に小さな穴が開いて、すぐに閉じた。弾は巨人の向こう側から抜けて、どこか遠くの荒れ地に落ちた。
中の星が、一瞬だけ、ざわりと揺れた。
それだけだった。
『…牛が、三十頭』とニムが呟いた。『三十頭が、荒れ地に落ちた』
巨人は、止まらなかった。
東門に向かって、寄せて、引いた。
門の石の柱まで、あと三百メートル。
このまま来れば、門を壊して、市場を通って、水道橋を通って、ニムの店の上を通る。
通った道にあったものは、全部壊れる。ブリンが言った。塔も、囲いも、わしの腕も。
ニコが、マーロウの袖を引いた。
『…ぼく、行く』
「どこへ」
『あれの前。あれ、ぼくの中の水と同じ匂いがするって、言ったでしょ。ぼくも、あれの匂いが分かる。あれも、ぼくのこと分かってる』
「だから何だ」
『ぼくが前を歩いたら、ついてくるかもしれない。家のないところを通れば、誰の家も壊れない』
マーロウは、ニコの顔を見た。
十二歳の顔だった。頬が、もう熱で赤くはなかった。
「…かもしれない、で行くのか」
『うん』
「来なかったら」
『来なかったら、逃げる。ぼく、ウィラ姉ちゃんに逃げ方教わったもん』
ウィラが、ニコの肩をつかんだ。
「一人で行かせるわけないでしょ」
『でも』
「あたしも行く。道は、あたしが一番知ってる。この街で一番」
ウィラは、マーロウを見た。
止められると思っている顔だった。止められても行く顔だった。
マーロウは、止めなかった。
「…おれも行く」
『え』
「おれの血に気づいてるんだろ、あれは。おれが横にいれば、真っ直ぐ突っ込んではこない。たぶん」
『たぶんって』
「おまえらと同じだ。かもしれない、で行く」
三人で、東門を出た。
巨人まで、二百メートル。
百メートル。
五十メートル。
見上げると、夜空だった。水の壁の中で、何十万の星が瞬いていた。近すぎて、星が一粒一粒、別々に見えた。
巨人が、止まった。
中の星が、動いた。マーロウのほうへ集まって、面が暗くなった。
それから、ニコのほうへ、少しだけ明るくなった。
ニコが、一歩前へ出た。
両手を広げた。
『…こっち』
小さな声だった。
『こっちだよ。こっちなら、誰の家もないよ』
ニコは、北へ向かって歩きだした。東門から外れて、街の北の縁に沿って。そこは昔の川の跡で、干上がって、誰も住んでいない。ウィラが教えた道だった。
巨人は、動かなかった。
ニコは、振り返らずに歩いた。
十歩。二十歩。
巨人が、寄せた。
北へ。
ニコの後ろを。
三人は、干上がった川の跡を、西へ歩いた。
ニコが先頭。その横にウィラ。少し後ろに、マーロウ。
後ろに、四十メートルの水の巨人がついてきていた。
寄せて、引いて。寄せて、引いて。
街の北の家々の屋根すれすれを、夜空が通り過ぎていった。
家々の窓から、人が見ていた。誰も声を出さなかった。子どもが一人、窓から手を伸ばした。巨人の中の星が、その指先の前で、ちかりと光った。
ウィラが、ニコの手を握っていた。
「怖くない?」
『怖くない。ウィラ姉ちゃんは?』
「…ちょっと怖い」
『じゃあ、ぼくが手、握っててあげる』
「…生意気」
ウィラは、ニコの手を、ぎゅっと握り返した。
マーロウは、二人の背中を見ていた。
三年前、市場で一人で荷車を引いていた子どもが、今、四十メートルの夜空を連れて、別の子どもの手を引いていた。
川の跡は、壁の根元で終わっていた。
海壁。高さ二十二メートル、厚さ六メートル。石と鉄でできている。この街の人間は、生まれたときからそう教わっている。
ニコは、壁の前で立ち止まった。
振り返った。
『…ここまで。この向こうが、海だよ』
巨人が、寄せた。
壁に、触れた。
音がした。
低い音だった。壁の中から響いてくるような、長い音だった。
壁の表面の石に、ひびが入った。
ひびは、上へ走った。横へ走った。石の板が、一枚、剥がれて落ちた。二枚。三枚。
マーロウは、ウィラとニコの襟をつかんで、後ろへ下がった。
剥がれた石の下に、鉄があった。
鉄ではなかった。
月の光を受けて、鈍く光っていた。継ぎ目があった。細い線が、規則正しく走っていて、途中で直角に曲がって、また並んでいた。
錆びていなかった。
マーロウは、その金属を知っていた。
坑の底で見た。三十日登った梯子の壁で見た。孤独の大地の、本部の部屋で見た。
ミラベルの左腕と、同じものだった。
巨人は、押していた。
押しても、金属の壁は、少しも動かなかった。
巨人の中の星が、ざわざわと揺れていた。
後ろから、足音がした。
ミラベルだった。ドラグと、ロズリンと、シビルが、その後ろにいた。
ドラグが、剥がれた石の下の金属を見上げた。
『…十四年、この壁の上に立っていた』
声が、低かった。
『石と鉄だと、教わった』
シビルが、金属を見ていた。話を買って売る商人が、黙っていた。
ミラベルが、壁に近づいた。
金属の手のひらを、金属の壁に当てた。
壁の中の低い音が、ミラベルの手の下で、少しだけ高くなった。
『…あー。そういうことか』
ミラベルは、振り返らなかった。
『この壁、人を海に近づけないためのもんじゃなかったんだ』
壁に手を当てたまま、巨人を見上げた。
『こいつを、海に近づけないためのもんだったんだ』
第八章 了