第十章
三本目の格子

ドラグは、壁を見上げた。
見張り塔の灯りの下に、副長の顔があった。グロム・ハルヴァー。オークだった。ドラグより若く、牙が短い。頭をきれいに剃っていて、目は黄色い。十年、ドラグの下で壁に立ってきた男だった。
マーロウは、この男と話したことがない。壁の上から見下ろされたことしかない。見下ろされるたびに、首の後ろが冷えた。
「銃を下ろせ、グロム」
『下ろせません、隊長』
「命令だ」
『本部の報せのほうが上です。隊長は三か月、壁にいませんでした。その間、壁の命令はおれが受けています』
「その報せは、何のためか書いてあったか」
『書いてありません。撃て、とだけ』
ドラグは、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「おまえは昔から、書いてあることしかやらん」
『隊長に、そう教わりました』
ドラグの顔が、ほんのわずかに動いた。
「…そうだったな」
最初の一発は、地面に撃たれた。
マーロウの足元から三歩離れたところで、赤い土が弾けた。
威嚇だった。弾一発で、牛が一頭。
『次は当てます』
マーロウは、格子から手を離さなかった。
「撃つなら撃て。その間に開ける」
『本気ですか』
「本気だよ。おまえらの弾は一発で牛一頭だろ。おれは七十二キロだ。牛より安い」
壁の上で、誰かが笑いかけて、やめた。
後ろで、足音がした。
大きな足音と、小さな足音と、犬の足音だった。
『あっはっは! ほら見ろ、やっぱりここだ!』
ブリンだった。吊った左腕のまま、右の拳を振り回しながら走ってきた。
その横に、三本指の手に鉤を握った男がいた。
『マーロォォウ! 排水口ってったら、ここしかねえだろがよぉ!』
ガスだった。
その後ろに、背骨でつながった双子と、眼鏡のつるが曲がったままのサイラスと、靴を一つくわえたボロがいた。
「…何しに来た」
『決まってんだろがよ! 鐘が鳴ってんのに、家で寝てられっかよぉ!』
ガスは、格子を見て、にやっと笑った。
『三本目だろ? 抜けてんの。おれが教えてやったんだよなぁ、三か月前に』
「教わってない。おまえが得意げに喋っただけだ」
『同じだろがよぉ!』
壁の上から、縄梯子が降りてきた。
兵が三人、梯子を降りてくる。銃を背負って。
『はいはい、ちょっと待ってねぇ』
ミラベルが、壁を蹴って跳んだ。
二十二メートルの壁を、途中で二回だけ蹴って、見張り塔の縁に手をかけた。
そのまま、塔の上に転がり込んだ。
壁の上で、悲鳴が三つ上がった。それから、何かが次々と落ちる音がした。
銃だった。
銃が、壁の外側へ、つまり海側へ、一丁ずつ放り投げられていた。
『弾一発で牛一頭なんでしょ? じゃあ、これ全部で牧場一個だねぇ! あっはは、もったいない!』
「殺すな! 殺すなよ!」とグロムが叫んだ。
『殺さないってば。あたし、今日は機嫌いいんだから』
縄梯子の兵が、下まで降りてきた。
一人目を、ブリンの右の拳が迎えた。兵は、来た梯子の方へ吹っ飛んで、梯子ごと揺れた。
『五日ぶりに殴った! 気持ちいい!』
二人目を、ガスの鉤が迎えた。刃のついていないほうで、銃の筒を引っかけて、ひねった。銃が兵の手から抜けて、地面に落ちた。
『悪ぃな兄ちゃん、指が三本でも、鉤は振れんだよぉ!』
三人目は、梯子の途中で止まった。
降りてこなかった。
上を見て、下を見て、それから、黙って梯子を登り直していった。
ドラグが、格子の前に立った。
残っている鉄の棒を、両手でつかんだ。
一本目を、引いた。
格子の根元の石が、割れた。棒が、根元ごと抜けた。
二本目。三本目。四本目。
オークの腕は、三百年はまっていた鉄の格子を、一本ずつ、野菜でも抜くように抜いていった。
最後の一本を抜いて、ドラグは、それを足元に置いた。
穴が、開いていた。
人が一人、立ったまま通れるくらいの穴だった。奥が、真っ暗だった。
奥から、風が来た。
塩の匂いがした。
「…向こう側だ」とマーロウが言った。
三か月前、この穴の向こうで、全部が始まった。
ニコが、穴の前に立った。
振り返って、巨人を見上げた。
『ここだよ』
巨人の中の星が、ゆらりと動いた。
『ここなら、痛くないよ。ここだけ、壁がないんだって』
巨人が、寄せた。
寄せて、引かなかった。
四十メートルの水の山が、ゆっくりと、細くなっていった。
高さが縮んで、幅が縮んで、その分だけ、前へ伸びた。
一本の、川のように。
水が、穴の中へ流れ込んだ。
何十万の星を抱えたまま、壁の中の真っ暗な通路を、光りながら流れていった。
壁の外から、水の音が聞こえた。
乾いた禁止区の白い地面に、水が走る音だった。
ウィラが、ニコの手を握っていた。
二人とも、穴の中を流れていく光を見ていた。
『…行っちゃう』
「うん」
『海に着いたら、どうなるのかな』
「分かんない。でも、痛くはないよ、きっと」
ウィラは、ニコの手を強く握った。
マーロウは、その横で、壁の音を聞いていた。
低くて、長い音。
止んでいなかった。
それどころか、高くなっていた。
音が、変わった。
低い唸りが、甲高い軋みになった。
穴の縁の石が、ぱらぱらと落ちた。石の下から、あの金属が覗いた。錆びない、継ぎ目のある金属。
その金属が、動いていた。
穴の縁から、内側へ。少しずつ、這うように。
「…嘘だろ」
穴が、狭まりはじめていた。
第十章 了