第十五章
記録係の紙

ロズリンは、その夜、眠らなかった。
ニムの店の奥の机を借りて、紙を広げていた。
灯りを三つ並べて、筆を走らせていた。一枚書き終えると、横に置いて、次の一枚を取った。
マーロウが水を持っていくと、ロズリンは顔も上げずに言った。
『ありがとうございます。そこに置いてください』
「何を書いてる」
『記録です』
「何の」
『三日前の夜、壁で起きたことの全部です』
ロズリンは、書き終えた紙の束を指で揃えた。
『壁の石の下が、錆びない金属だったこと。その金属が、巨人の水を粒にしていたこと。穴を閉じようとして動いたこと。本部の声で喋ったこと。帝国の古い記録に、壁を建てたではなく直したと書いてあること』
「全部、見たことだな」
『見たことしか書きません。見たのは私だけではありません。壁の上の兵が三十人、見ています』
マーロウは、ロズリンの横顔を見た。
眼鏡の奥の目が、赤かった。
「それで、ドラグが出てこられるのか」
『分かりません』
ロズリンの筆が、止まった。
『私にできるのは、書くことだけです。隊長は、腕を持っています。刃の人は、刃を持っています。あなたは、血を持っています。私は、紙しか持っていません』
それから、また筆を動かしはじめた。
『ですから、書きます。一番いい紙を』
朝、ロズリンは、壁の詰所の前に立っていた。
紙の束を三つ、抱えていた。
マーロウとウィラが、後ろにいた。シビルも、少し離れて伏せていた。
詰所の戸口に、グロムが出てきた。
『書記。隊長には会わせられません』
「会いに来たのではありません。書類を届けに来ました」
ロズリンは、一つ目の束を差し出した。
グロムは、受け取らなかった。
「読んでください。副長は、書いてあることしかなさらない方だと聞いています。ですから、書いてきました」
グロムは、しばらくロズリンを見ていた。
それから、束を受け取った。
一枚目を読んだ。
二枚目を読んだ。
眉が、少しずつ寄っていった。
「本部からの報せには、隊長を拘束して都へ送れ、と書いてありました。理由は、書いてありましたか」
『…書いてありません』
「帝国の決まりでは、隊長の位にある者を都へ送るには、罪状を書いた紙が要ります。私は記録係ですので、決まりの本は全部読んでいます。決まりの本の四冊目、百十二頁です」
グロムの手が、止まった。
「罪状が書かれていない報せで、隊長を都へ送れば、送った副長が決まりに背いたことになります」
『…それは』
「書いてあることしかなさらない方なら、書いてないことで隊長を送ることは、なさらないはずです」
グロムは、黙って紙をめくった。
最後の一枚に、ロズリンの署名があった。その下に、三十人の名前が並んでいた。
壁の上にいた兵たちの名前だった。昨夜のうちに、ロズリンが一人ずつ訪ねて、見たことを確かめて、名前を書いてもらったものだった。
『…いつ、これを』
「昨夜です。眠っていませんので」
グロムは、束から顔を上げた。
ロズリンの後ろの、シビルを見た。
シビルは、前足の間に、ロズリンの二つ目の束を置いていた。
『…あの獅子は』
「二つ目の写しを、預かっていただいています。シビル・オーヴェインさんは、話を買って売る方です」
ロズリンは、眼鏡を押し上げた。
押し上げた手は、もう震えていなかった。
「隊長が都へ送られたら、この話は、帝国じゅうで売られます。三百年、帝国が建てたことになっていた壁の話です」
グロムの顔が、はっきり動いた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、グロムが、三つ目の束を指さした。
『それは』
「三つ目は、私の帳面に綴じます。何も起きなければ、それで終わりです」
グロムは、長い息を吐いた。
それから、自分の胸の物入れから、筆を出した。
一つ目の束の余白に、何かを書きつけた。
書き終えて、ロズリンに見せた。
罪状なし。拘束の理由、書類に記載なし。帝国の決まりにより、都への移送を保留とする。副長、グロム・ハルヴァー。
『書いてあることしか、しません』
グロムは、束を閉じた。
『書いてないことも、しません。隊長に、そう教わりました』
ドラグは、詰所の奥の部屋から出てきた。
縄はかかっていなかった。軍服の襟が、少し乱れていた。
戸口で、ロズリンと向き合った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「…隊長」
ロズリンの声が、かすれた。
ドラグは、ロズリンの抱えた紙の束を見た。三つ目の束を。
『…紙に、助けられたな』
「紙ではありません」
ロズリンは、顔を上げた。
「書いたのは、私です」
ドラグは、その顔を見た。
眼鏡の奥の、赤い目を。一晩眠らなかった顔を。
それから、少しだけ口の端を動かした。
笑ったのだと、マーロウは気づくのに少し時間がかかった。この男が笑うのを、見たことがなかった。
『そうだな』
ドラグは、ロズリンの前に立った。
『ロズリン』
名前だった。
三か月、ずっと書記と呼ばれてきた女が、初めて名前で呼ばれた。
ロズリンの手から、筆が落ちた。
石畳の上で、からん、と鳴った。
『ありがとう』
ロズリンは、落ちた筆を拾わなかった。
拾えなかった。
ウィラが、マーロウの袖を引っぱった。顔が、にやけていた。
『…ねぇ。今の見た?』
「見た」
『筆、落としたよ。あの人が』
「見たって」
『書いてくれないかな、今の。帳面に』
「書かないだろうな」
マーロウは、少し笑った。
「たぶん、書いて、紙を一枚重ねて隠す」
第十五章 了