第七章
帰郷

夜のうちに、巨人を追い越した。
濡れた跡から大きく北へ外れて、巨人の横を、二キロ離れて通り過ぎた。月の下で、巨人の中の星が、遠くでちかちか光っていた。
巨人は、こちらを見なかった。
見なかったのか、見ないふりをしたのか。ニコに訊いたら、『寝てるみたいだった』と言った。
それから四日、休まずに走った。
馬を替える場所はない。二頭の馬は、四日目にはほとんど歩いていた。ウィラが手綱を握りながら、ずっと馬に話しかけていた。
『ごめんね、ごめんね。あとちょっとだから。着いたら水いっぱいあげるから』
「水はないぞ、街にも」
『あるよ。あれが持ってきてくれるもん』
マーロウは、何も言い返さなかった。
五日目の朝、東門が見えた。
九十二日ぶりだった。
門は、出ていったときと同じだった。石の柱が二本。上に見張り台。門の外の、オットが立っていた場所には、誰もいなかった。
門をくぐった。
市場の匂いがした。
干し肉と、油と、煙と、人の汗の匂い。乾いた土埃の匂い。三か月、一度も嗅がなかった匂いだった。
ウィラが、荷車から飛び降りた。
何も言わずに走った。市場の人混みを、猫みたいにすり抜けて。三番目に速い足で。
マーロウは、どこへ行くのか分かっていた。
ニム・カラハンの店は、崩れた水道橋の下にあった。
三か月前と同じだった。扉の上の布が、少し色あせていただけだった。
ウィラが、扉を開けっぱなしにして中に飛び込んでいた。
マーロウが入ったとき、ニムは、秤の前で固まっていた。
ウィラに抱きつかれて、固まっていた。
『…な、な、なんだ。離れんか。離れんか、この』
「ただいまぁ!」
『ただいまじゃないわ! 九十二日だぞ! 九十二日、どこをほっつき歩いとった! 黙って出ていきおって!』
ニムは、ウィラを引き剥がそうとして、引き剥がさなかった。
引き剥がす代わりに、頭のてっぺんを、ぺしんと叩いた。
それから、マーロウを見た。
『…おまえもだ、マーロウ』
「悪かった」
『悪いわ! わしは百六十年この商売をしとるが、九十日も顔を見せん客は初めてだ! 死んだと思って、帳面に線を引くところだったわ!』
ニムは、怒鳴りながら、棚の奥に手を突っ込んだ。
干した杏を二つ取り出して、一つずつ、二人の手に押しつけた。
『食え。糖が足りとらん顔しとる。二人ともだ』
ウィラが、杏を握ったまま、泣き笑いの顔になった。
三か月前、同じ台詞を、同じ棚の前で聞いた。
ガスは、ヴェスタの店にいた。
ヴェスタに、鉤を握る手の革帯を縫い直してもらっているところだった。残った三本の指に、革を巻いていた。
マーロウが戸口に立つと、ガスが顔を上げた。
口が、開いた。
『…生きてやがったなぁぁぁ!!』
ガスが立ち上がった。ヴェスタが縫いかけの革帯を引っぱられて、舌打ちした。
ガスは構わずに走ってきて、マーロウに抱きついた。三本の指で、背中をばんばん叩いた。
『東だってなぁ! 誰も帰ってこねえ東だってなぁ! ばかやろう、ばかやろうがよぉ!』
「痛くない」
『知るかよぉ! 痛くなくても叩くんだよぉ!』
ガスの声が、途中で潰れた。元気なときほど語尾が伸びて、弱ると短く潰れる男だった。
『…シビルの婆さんに、断られた。おまえが東から何か持って帰るまで待てってよ』
「聞いた。道で会った」
『道で?』
「あとで話す。長い」
ヴェスタが、根を床に吐いた。
それから、黙って立ち上がって、棚の前へ行った。
麻の反物が何十本も並んでいた。ヴェスタは迷わずに一本を抜いた。端を十二針で縫い閉じてある一本だった。
小刀で糸を切った。反物をほどいた。
ガラスの筒が出てきた。
中の水が、灯りに透けて揺れた。
『帰ってきたら返すと言った』
ヴェスタは、筒をマーロウの手に置いた。
『帰ってきた。だから返す』
「…ありがとう」
『礼はいらん。銅貨十二枚もらっとる』
ヴェスタは、見えているほうの目で、マーロウをじっと見た。
それから、少しだけ、口の端を上げた。この女が笑うのを、マーロウは初めて見た。
『よう帰った』
マーロウは、全部話した。
ニムの店で。ニムとヴェスタとガスと、ついてきたブリンとシビルと、店の入口を塞ぐほど大きいミラベルの前で。
水の巨人が来る。今日か、明日か。この街を通って、壁の向こうの海へ向かっている。
ニムは、話の途中で三回、嘘をつくなと言った。
シビルが、三回とも、本当です、と言った。
四回目に、ニムは黙った。
『…通り道は、どこだ』
「東門から真っ直ぐ西だ。一回も曲がってない」
ニムは、店の壁に貼ってある、古い街の地図を見た。
東門から真っ直ぐ西へ、指でなぞった。
指は、市場を通った。水道橋を通った。
ニムの店の上を、通った。
ドラグが、立ち上がった。
『壁の詰所へ行く。鐘を鳴らさせる』
「信じるのか、壁の連中が」
『信じさせる。おれはまだ、壁の隊長だ』
ロズリンが、紙束を抱えて、ドラグの後ろについた。
ドラグは、来るなとは言わなかった。
昼過ぎ、街じゅうの鐘が鳴った。
二十年、鳴ったことのない鳴らし方だった。
夕方、市場の東の端に、人が集まった。
地平線を見ていた。
日が傾いて、東の空が暗くなりはじめたころ、それが見えた。
地平線の上に、夜空が一つ。
何十万の星を抱えて、寄せて、引いて、こちらへ向かってきていた。追い越したときより、ずっと速かった。海の匂いがするんだ、とニコが言った。
市場の誰かが、小さく言った。
『…きれい』
誰も、逃げなかった。
逃げるのを、忘れていた。
第七章 了