海壁

第二十四章

二百九十年の答え

挿絵:二百九十年の答え

三日目の朝、桶の列に、白い影が加わった。

誰も、呼んでいなかった。

岩の上から降りてきて、濡れた白い地面を歩いてきて、列の、オットとサムのあいだに立った。

両腕が金属の女だった。

オットが、丁寧に頭を下げた。

『いらっしゃいませ』

二番は、同じ角度で頭を下げ返した。

それから、列の向こうから来た桶を受け取って、隣へ渡した。

両腕で、二つ同時に。

列が、速くなった。

桶が、マーロウのところへ、今までの倍の速さで届きはじめた。


ミラベルが、桶を置いて、二番を見ていた。

「…手伝ってくれるんだ」

二番は、桶を渡しながら答えた。

『命令は、受けていません』

「じゃあ、なんで」

『昨日、ずっと見ていました。この二人は、変わっています。私と同じで、言われたことを、言われたとおりにします』

二番は、オットとサムを見た。

『それなのに、昨日、片方が、片方の桶を拾いました。言われていないのに』

ミラベルは、黙って聞いていた。

『言われていないことをする理由が、知りたくなりました。同じ場所に立てば、分かるかもしれないと思いました』

「…分かった?」

『まだ、分かりません』

二番は、桶を渡した。

『ですが、立っていたいと思います。ここに』

ミラベルは、にっと笑った。

「それ、名前がある子の言い方だよ、ベル」

二番の手が、一瞬、止まった。

それから、また桶を渡しはじめた。

『…ベルです』

小さな声だった。

『私は、ベルです』


マーロウの腕は、戻っていた。

昨日、ゆっくりやったぶん、少し軽かった。

桶が、倍の速さで来る。

手を入れる。粒が落ちる。次の桶。

手を入れる。次の桶。

壁の上で、ウィラが声を張っていた。

「ガス、縄、遅い! ミア、次の桶! ブリン、豆は後!」

『鬼かよぉ、嬢ちゃん!』

「鬼でいいから! 今日で三日目なの!」

ニコは、朝からまた海に入っていた。腰まで浸かって、星の上に手を置いていた。

ときどき、振り返って叫んだ。

『いいって! ゆっくりでいいって、言ってる!』


日が傾いた。

壁の上で、ロズリンが、帳面を開いた。

全員が、手を止めた。

桶の列も。壁の上の縄も。海の中のニコも。

ロズリンは、眼鏡を押し上げた。

押し上げる手が、震えていた。

『今日、作った粒、二千三百四十一』

壁の上で、誰かが口笛を吹いた。

『海の水位』

ロズリンは、壁の縁に立てた棒の印を見た。朝につけた印を。

『…変わっていません』

壁の上が、静まり返った。

『壁の灯り。今日、消えたのは、零です』

ロズリンの声が、そこで、かすれた。

『昨日から、あいつの速さと、マーロウ・ケインさんの速さが、近づいてきていました。今日は、釣り合っています』

ロズリンは、帳面を胸に抱えた。

『…釣り合いました』


壁の上で、ガスが、三本の指を空に突き上げた。

『やったぁぁぁ!!』

ブリンが、豆の鍋を叩いた。ニムが、秤を放り出した。ミアが、ガスに飛びついた。

禁止区で、兵たちが、桶を放り投げた。グロムでさえ、口の端を少しだけ動かした。

ミラベルが、ベルの背中を叩いた。ベルは、叩かれた背中に、金属の手を当てて、首を傾げていた。

ニコが、海の中で、両手を上げていた。

『やったよ! やったって、言ってるよ!』

海の星が、一度、いっせいに明るくなった。


マーロウは、壁の根元へ歩いた。

石の剥がれたところに、手のひらを当てた。

「聞こえてるか」

『聞こえています』

「三日だ」

『数字は、受け取りました。書記係の数字と、壁の灯りの数と、海の水位。三つとも、一致しています』

金属の震えが、止まった。

間が、一つ。

二つ。

三つ。

『…解が、成立しています』

壁の上が、しんとした。

『二百九十年、見つかりませんでした』

抑揚のない声だった。

それでも、マーロウには、その声が、少しだけ遅く聞こえた。


『約束を、書き換えます』

「言え」

『一〇六番。あなたは、本部に来なくてよい。三十年の約束は、取り消します』

壁の上で、ウィラが、口を両手で押さえた。

『代わりに、この海のそばにいてください。毎日、個体と釣り合う量の粒を作ってください。一人で足りない分は、今日のように、この街の者が補ってかまいません』

「期限は」

『ありません』

マーロウは、少しだけ、黙った。

期限がない。

一生、ということだ。

この海のそばで、一生。

一が九年いた坑の底と、同じだった。

違うのは、ここには、空があって、風があって、桶を運ぶ連中がいて、壁の上に、あの子がいることだった。

「…分かった」

『それから』と壁が続けた。『二番の命令違反は、記録しません。二番は、この海に置きます。均衡の番として』

桶の列の中で、白い影が、顔を上げた。

「…ベルです」

壁が、黙った。

ベルは、もう一度言った。

「私の名前は、ベルです」

間が、一つ。

二つ。

『…ベル』

壁が、そう言った。

三百四十年動いている計算機が、初めて、名前で、誰かを呼んだ。

ミラベルが、顔を覆った。曲がった指のほうの手で。


ウィラが、梯子を駆け下りてきた。

乾いたところの端で、止まった。

マーロウが、濡れた地面から、乾いた地面へ上がってきた。

ウィラは、何も言わなかった。

言わずに、マーロウの胸に、頭からぶつかってきた。

マーロウは、倒れなかった。

今日は、倒れなかった。

『…一生?』

「一生だ。ここで」

ウィラの肩が、震えた。

『…ここなら、あたしも、いる』

小さな声だった。

『一生、いる』


その夜、サイラスが、硝子の板を持ってきた。

目が、笑っていなかった。

『本部から、もう一つ報せでございます』

白い字が、浮かんでいた。

南方より、共和国の空船、三隻。海を目指して接近中。到着、二日後。

第二十四章 了