海壁

第三十章

別れの朝

挿絵:別れの朝

三日後の朝、東門の外に、四人が立っていた。

一。ケイル。ヨルンとユラン。

荷は、軽かった。水の袋と、豆の袋と、ヴェスタが縫い直した上着。ケイルの背中の縫い目は、まだ新しかった。

行き先は、南。二十九日。

巨人が残していった濡れた道が、東へ延びていた。その途中から、南へ折れる。

見送りは、多かった。

ニムがいた。ガスがいた。ヴェスタが、珍しく店から出てきていた。ブリンが、ボロを抱えていた。ミアがいた。ニコがいた。ロズリンが、紙束を抱えていた。

ミラベルとベルが、並んで立っていた。

シビルが、二枚の翼を背中の横に置いて、伏せていた。

ウィラが、マーロウの袖をつかんでいた。


マーロウは、門の外へ、出なかった。

出られなかった。

この海のそばにいる、と、壁に約束した。朝は、桶を回さなければならない。南へ二十九日歩けば、釣り合いが崩れる。

一は、それを知っていた。

門の内と外で、向き合った。

『来なくていい。来るなよ』

「行けないんだよ」

『知っとる。知っとるから、言っとる』

一は、少しだけ笑った。

『おまえは、ここの栓だ。おれは、向こうの栓だ。九年、おれは一人で栓をしとった。今度は、二人だ。場所は違うがな』


ウィラが、一の前に出た。

何も言わなかった。

言わずに、右手を出した。

一は、その手を見た。

それから、握った。

『…名乗ってくれ』

一が、小さく言った。

『もう一回。前みたいに』

ウィラの目が、濡れた。

「ウィラ・ドーセットです」

『一だ』

一は、ウィラの手を、一度、強く握り直した。

『覚えとく。覚えとくぞ、嬢ちゃん』


ドラグは、兄の前に立っていた。

ケイルは、背中の縫い目をかばうように、少し前かがみだった。翼のない背中は、ひどく軽そうに見えた。

「三年前」とドラグが言った。

『なんだ』

「荷は着いた。おまえは着かなかった」

『…ああ』

「今度は、着いたら、手紙を書け」

ケイルは、弟を見た。

それから、声を出して笑った。ドラグと同じ高さの声で。

『書く。書くよ。字は、おまえより下手だがな』

「知ってる」

ドラグは、自分の上着を脱いだ。

軍服の上着だった。十四年、壁の上で着てきたものだった。

兄の肩に、掛けた。

『…おれは、共和国の将軍だぞ。帝国の軍服を着て歩けるか』

「将軍は、辞めたんだろう。翼と一緒に」

ケイルは、肩に掛けられた上着を、しばらく見ていた。

それから、袖に腕を通した。

袖が、少し短かった。

弟のほうが、少しだけ、腕が長かった。


最後に、一が、マーロウの前に戻ってきた。

門の内と外。一歩ぶんの距離。

一は、マーロウの顔を見ていた。自分と同じ顔を。

『一つ、言い忘れとった』

「なんだ」

『坑の底で、おまえに言ったな。おれたちは、作られたときに、濡らされとると』

マーロウは、頷いた。

坑の底。白い灯り。十三人の遺体。触るまでは、十年でも二十年でも、何も起きん、と一は言った。

『おれは、作られた日に濡らされた。だから、十一日で変わった。十四人とも、そうだ』

「知ってる」

『おまえは、二十九年、変わらんかった』

「…ああ」

『桶で作られたなら、ありえん』

一は、まっすぐマーロウを見た。

『おまえ、桶で作られたんじゃないな』

朝の風が、門の下を吹き抜けた。

マーロウは、何も言えなかった。

母親の顔が、浮かんだ。六年前の夏に死んだと聞かされた母親。腕の数字のことを訊いたら、知らない、と言った母親。

『何で作られたかは、知らん。おれは、この体と、あの穴のことしか知らん』

一は、背を向けた。

『だが、本部なら知っとる。あいつは、嘘はつかん。訊かれたことには、答える』

一は、南へ、歩きだした。

三歩行って、振り返った。

『迎えに来てくれて、ありがとうな。迎えに、来てくれて』

二回、言った。

前にも、聞いた言葉だった。

今度は、一が、ちゃんと笑っていた。


四人の背中が、濡れた道の先で、小さくなっていった。

ケイルが、一度だけ振り返って、軍服の袖を上げた。

ドラグは、手を上げなかった。

ただ、四人が地平線の向こうに消えるまで、門の外に立っていた。

ロズリンが、その隣に立っていた。

何も言わずに。

紙束を抱えた腕を、そっと、ドラグの腕に触れさせていた。

第三十章 了