海壁

第四章

水の巨人

挿絵:水の巨人

五日、跡を追った。

跡の縁には、日を追うごとに芽が増えていった。一日目は数えられた。三日目には数えるのをやめた。五日目には、跡の両側が、細い緑の帯になっていた。

乾いた赤い大地に、緑の線が二本。その真ん中を、水の線が一本。

地平線まで、ずっと。

『道みたい』とニコが言った。

「道だな」とマーロウが言った。

『誰の道?』

マーロウは、答えられなかった。


五日目の昼、それが見えた。

最初、マーロウは雲だと思った。地平線の上に、白っぽいものがかかっていた。

雲にしては、低すぎた。

そして、動いていた。寄せて、引いて、寄せて、引いて。

近づくにつれて、全員が黙った。

ブリンでさえ、黙った。

水だった。

山のように盛り上がった水が、地面の上を動いていた。高さは、哨所の塔より高かった。四十メートルはある。長さは、ブリンの言ったとおり、市場の通りほどもあった。

向こうが透けて見えた。水の向こうの地平線が、揺れて、歪んで見えた。

そして、その中に、星があった。

昼なのに。

水の中いっぱいに、黒い粒が浮かんでいた。何十万も。日の光を受けて、一粒ずつが、ちかちかと瞬いていた。

昼の空の下に、夜空が一つ、歩いていた。

ウィラが、御者台で手綱を握ったまま、口を開けていた。

『…きれい』

それだけ言って、あとは何も言えなくなった。

マーロウも、何も言えなかった。

九年ぶんだ、と思った。坑の底で、一が毎朝二時間、百回、手を入れて、沈めていった粒。深さの分からない水の底に消えていったもの。

消えていなかった。

全部、ここにあった。


荷車を止めた。

水の巨人まで、五百メートル。

それ以上近づくのは、誰も言い出さなかった。

巨人は、止まらずに進んでいた。寄せて、引いて。一回寄せるたびに、十歩ぶんほど前へ出る。通った後ろに、濡れた道が残る。

『…目がないね』とミラベルが言った。

いつもの声ではなかった。低くて、静かだった。

『頭もない。口もない。何で前が分かるんだろ』

「分かってるのか」

『分かってるよ。真っ直ぐ海に向かってる。一回も曲がってない』

ミラベルは、左腕を持ち上げた。金属の指が、一本ずつ、開いて、閉じた。

『二百十年』

「何がだ」

『あたしが、あれを押さえるために作られてから。二百十年。一回も会ったことなかったんだよね』

ミラベルは、笑おうとした。

うまく笑えなかった。

『思ってたのと、全然違った。もっと、怖いやつだと思ってた』


巨人が、止まった。

寄せたところで、引かなかった。

そのまま、動かなくなった。

『…止まった?』とニコが言った。

中の星が、動いた。

何十万もの黒い粒が、ゆっくり、水の中を流れはじめた。巨人の、こちらを向いた側へ。

荷車のある側へ。

粒が集まって、巨人のこちら側の面が、夜のように暗くなった。

『坊や』

ミラベルの声が、固かった。

『あれ、坊やを見てる』

「目がないんだろ」

『目はない。でも見てる。坊やの血に、気づいてる』

マーロウは、自分の手のひらを見た。

この血は、生き物を通った水を消す。桶一杯ぶん。一瞬で。

目の前にあるのは、生き物を通った水の、山だった。

「…怖がってるのか」

『分かんない。怖がってるのか、怒ってるのか、ただ見てるのか』

ミラベルは、マーロウの前に、一歩出た。

巨人とマーロウの間に。

『どっちにしても、坊やはあたしの後ろ』

「逆だろ、普通」

『普通じゃないもん、あたしたち』


巨人の水面が、一か所だけ、盛り上がった。

細い腕のような水が、一本、ゆっくりと伸びてきた。

荷車のほうへ。

マーロウのほうではなかった。

荷台の端に座っていた、ニコのほうだった。

「ニコ! 降りろ!」

ウィラが叫んだ。御者台から飛び降りて、荷台へ走った。

水の腕は、ニコの三歩手前で、止まった。

止まって、揺れていた。

ニコは、逃げなかった。

逃げずに、水の腕を見上げていた。

『…これ、ぼくの中にあるのと、同じだ』

「何言ってんの!」

『分かるんだ。飲んだから。ぼくの中にある水と、同じ匂いがする』

水の腕の先が、ニコの頬の前で、小さく震えた。

触れなかった。

それから、ゆっくり引いていった。

巨人の中の星が、また散らばった。こちら側の面が、明るくなった。

巨人は、寄せて、引いた。

また、西へ進みはじめた。

ウィラが、ニコを両腕で抱きしめていた。

「ばか! 逃げなさいよ!」

『でも、怖くなかったよ』

「あたしが怖かったの!」

マーロウは、その二人を見ていた。

自分がウィラに言いたくて、三年間一度も言えなかった台詞だった。


ブリンが、空を指した。

『おい。あれは何だ』

南の空に、黒い影があった。

影は、少しずつ大きくなった。

三百メートル。黒い腹。翼もグリフォンもなく、ただ浮いている。腹の下から、白い光が漏れている。

周りに、点が散らばっていた。四十以上。

ヨルンとユランが、同時に顔色を変えた。

「空船だ。都の空船だ」とヨルンが言った。

『あれを見に来たんじゃない』とユランが言った。『獲りに来たんだ』

「獲るって、何を」

ユランは、水の巨人を指した。

その中で瞬いている、何十万もの星を。

『共和国が、あれを見逃すと思うか? 牛にして何十万頭ぶんが、歩いてるんだぞ』

第四章 了