第十六章
二番目の刃

街の北の、干上がった川の跡に、水が残っていた。
巨人が通っていった夜から、六日たっても、乾かなかった。
細い流れが、川底を西へ伸びていた。流れの両側に、緑の芽が出ていた。一日目は数えられた。三日目には、数えるのをやめた。
朝になると、子どもたちが集まってきた。
水に指を浸して、きゃあきゃあ言って逃げる。大人が怒鳴る。海の水だ、触るなと。子どもたちはまた戻ってくる。
危なっかしいが、指先が濡れるくらいでは、何も始まらない。始まるのは、手首まで浸けて十を数えるくらいからだ。
それを知っているのは、この街ではまだ数えるほどしかいない。だから大人は怒鳴る。怒鳴るほうが早いからだ。
緑を見たことのない街の子どもたちが、生まれて初めての草を、そっと指でつついていた。
ニコは、流れの縁に膝をついて、水をすくっていた。
横に、ウィラとミアがしゃがんでいた。
「何口?」
『…五口』
「うそ。三口でしょ。見てたもん」
『なんで二人で見てるの』
「ミアも見張り役だから」
『そうだよ。あたしも見てた』とミアが言った。
ニコは口をとがらせて、あと二口飲んだ。
ウィラとミアが、同時に笑った。
マーロウは、少し離れた石の上で、それを見ていた。
三年前、市場で一人で荷車を引いていた子が、今は二人の年下を見張っている。
ミラベルが、隣に座った。
手に、湯の入った木の椀を持っていた。曲がっていないほうの手で。
曲がった二本の指で椀の縁を支えようとして、支えきれずに、椀が傾いた。
湯がこぼれた。
『あー。まただ』
ウィラが走ってきて、ミラベルの手から椀を取った。こぼれた分を拭いて、持ちやすい向きに直して、両手で持たせた。
『ありがと、嬢ちゃん』
「どういたしまして」
ウィラは、ミラベルの隣に腰を下ろした。
マーロウは、二人を見比べた。六日前の晩、片方がもう片方の頬を叩いた。今は並んで座っている。
「…仲良くなったな、おまえら」
『組んだからね』とミラベルが言った。
「何を」
『内緒』
「ウィラ」
『内緒』
ウィラは、ミラベルと顔を見合わせて、にやっと笑った。
『一つだけ言っとく』
ウィラが、急に真顔になった。
『三十年の代わりを探してる。本部が欲しがってるもので、マーロウが三十年いなくても済むもの』
マーロウは、黙ってウィラを見た。
『シビルは、何でも買う商人でしょ。本部のことは、ミラベルが一番知ってる。ロズリンは、決まりの本を全部読んでる。一人じゃ無理でも、みんなでなら見つかるかもしれない』
ミラベルが、椀を両手で持ったまま、横から言った。
『本部が欲しいのはさ、燃料と水の問題を解くこと。三百四十年、それだけ。坊やの血は、そのための材料ってだけ』
「じゃあ、別の材料があればいいんでしょ」
ウィラは、指を折った。
『期限まで、あと八十三日。八十三日で見つける』
マーロウは、何か言おうとした。
無理だ、と言おうとした。
言わなかった。
この子は、字を覚えるのに一年かけた子だった。牛の帳面に何が書いてあるのか知りたくて、一年。
「…分かった」
『え』
「探せ。おれも探す」
ウィラの顔が、ぱっと明るくなった。
夕方、サイラスが、流れのほうへ歩いてきた。
手に、硝子の板を持っていた。
いつもの、目だけ笑っている顔ではなかった。
『ケインさん。刃の方』
サイラスは、板をミラベルに向けた。
『本部から、報せでございます。読み上げます』
白い字が、板の中に浮かんでいた。
『刃の回収に、二番を送った。到着は本日』
ミラベルが、椀を置いた。
「二番?」とマーロウが訊いた。
ミラベルは、答えなかった。
板の字を、もう一度読んでいた。
『…二番なんて、聞いたことない』
小さな声だった。
『あたし、二百十年、自分が一本目で、一本だけだと思ってた』
日が沈むころ、ニコが、東を見て立ち上がった。
『…誰か来る』
川の跡の、濡れた流れの、ずっと上流。
巨人が残していった道を、誰かが歩いてきていた。
走ってはいなかった。歩いていた。それなのに、近づいてくるのが速かった。
背が高かった。
髪は灰色で、長く、後ろできっちりと一本に結ばれていた。服は白かった。孤独の大地の連中と同じ、汚れ一つない白だった。
両腕が、肩から先、人の腕ではなかった。
錆びない金属だった。継ぎ目があって、細い線が規則正しく走っていた。
両方の目に、色がなかった。
灰色の、磨いた金属の目が、二つ。どちらも瞬きをしなかった。
女は、緑の芽の列の手前で、止まった。
止まるときに、濡れた砂を一歩も滑らせなかった。
マーロウは、その止まり方を知っていた。
それから、女の顔を見て、息を止めた。
隣で、ミラベルが立ち上がっていた。
曲がった指を胸に抱えたまま、女の顔を見ていた。
女の顔は、ミラベルの顔だった。
同じ鼻。同じ顎。同じ口の形。
ただ、笑っていなかった。笑い方を、最初から持っていないような顔だった。
『一番』
抑揚のない声だった。本部の声に、よく似ていた。
『回収に来ました』
女は、ミラベルからマーロウへ、金属の目を動かした。
『一〇六番。あなたは期限まで自由です。回収の対象ではありません』
それから、またミラベルへ。
ミラベルが、かすれた声で言った。
「…あんた、誰」
『二番です。あなたの顔を使って作られました』
「名前は」
女は、少しだけ首を傾けた。
首を傾ける角度が、ミラベルと同じだった。
『名前は、ありません』
両腕の、肘から手首までの線に沿って、光を返さない刃が、音もなく伸びた。
二本。
ミラベルの刃は、一本だった。
その一本の腕の指が、二本、曲がっていた。
第十六章 了