海壁

第二十三章

ニコの声

挿絵:ニコの声

二日目の朝、ニコは、海に入った。

波打ち際から、一歩ずつ。膝まで。腰まで。

星の海の中へ。

ウィラは、乾いたところの端に立っていた。

一歩も、濡れたほうへ出られなかった。出たら、十一日の時計が始まる。マーロウが、それだけはするなと言った。

だから、立っていた。

両手を、胸の前で握りしめて。

ニコが、腰まで浸かったところで、止まった。

両手を、水の上に広げた。

海の中の星が、ゆっくり、ニコの周りに集まってきた。

ニコの手のひらの下で、星が、小さく瞬いていた。

『…聞こえる?』

ニコが、海に話しかけた。

波の音しか、しなかった。

『ぼくだよ。ここだよって、言った子。壁の穴まで、連れていった子』

星が、一度、明るくなった。


マーロウは、波打ち際で、桶の列の端に立っていた。

今日も、手を入れていた。昨日ほど速くはなかった。腕が、まだ重かった。

それでも、手を入れながら、ニコを見ていた。

ニコの肩が、少し揺れていた。

笑っているのか、泣いているのか、ここからは分からなかった。

やがて、ニコが振り返った。

『マーロウ!』

「どうした」

『あいつ、お腹すいてるんだって!』

桶の列が、一瞬、止まった。

『ずっと、閉じ込められてたから! ずっとずっと、ちょっとずつしか食べられなかったから! だから、今、いっぱい食べてるんだって!』

ニコの声が、波の上を渡ってきた。

『急いでるんじゃなくて、お腹すいてるだけなんだって!』


マーロウは、手を止めた。

ロズリンが、壁の上で筆を止めた。

ミラベルが、桶を持ったまま、海を見た。

『…三百年、腹ぺこだったってこと?』

ミラベルの声が、少し笑っていた。

『そりゃ、急いで食べるよねぇ』

ニコは、また海に向き直った。

両手を、星の上に置いた。

『あのね。聞いて』

ニコの声が、小さくなった。

本当のことを言うときの、小さい声だった。ウィラから移った声だった。

『マーロウが、毎日作るよ。毎日、ここで。ずっと。だから、もう、急がなくていいよ。明日も、明後日も、ちゃんとあるから』

星が、ニコの手のひらの下で、ゆっくり、瞬いた。

一回。

二回。

『ゆっくり食べていいんだよ。もう、誰も、閉じ込めないから』


海の星が、変わった。

消えたのではなかった。

一つ一つの瞬きが、ゆっくりになった。速く、ちかちかと瞬いていた星が、呼吸をするような速さに変わっていった。

波打ち際から、沖まで。

左から、右まで。

海全体が、深く息を吐いたように見えた。

壁の上から、ロズリンの声が落ちてきた。

『…灯りが』

全員が、壁を見上げた。

北の端まで消えかけていた壁の灯りが、そこで、止まっていた。

消えていく列が、止まっていた。


その日の夕方、ロズリンが数字を読み上げた。

『今日、作った粒、九百八十』

昨日より少なかった。マーロウの腕が、まだ戻っていなかった。

『海の水位。朝から、指一本ぶん上がりました』

昨日は、手のひら半分だった。

『壁の灯り。今日、消えたのは三つです』

昨日は、三十一だった。

壁の上で、誰かが、息を吐いた。

ロズリンは、帳面から顔を上げた。

『あいつの速さが、変わりました。十二倍ではありません。今日の数字から計算すると、今日の列が作った数の、二倍と少しです』

「二倍…」とニムが言った。「まだ、足りんのか」

『足りません。あと、少しです』


ニコが、海から上がってきた。

唇が、紫だった。一日じゅう、腰まで水に浸かっていた。

ウィラが、乾いたところの端で、両腕を広げていた。

ニコは、その腕の中に、倒れ込んだ。

ウィラの服が、濡れた。

海の水が、ウィラの服に染みた。

ウィラは、それに気づいて、一瞬だけ固まった。

マーロウが、走ってきた。

ウィラの濡れた袖を見た。

「…ウィラ」

『服だけ。肌には、ついてない』

ウィラは、ニコを抱いたまま、濡れた袖を自分から離した。

『大丈夫。ちゃんと、気をつけた』

それから、ニコの頭に頬をのせた。

「えらかったね。すっごく、えらかった」

ニコは、ウィラの胸に顔を埋めたまま、小さく言った。

『…あいつ、ありがとうって言ってた』

「ほんと?」

『うん。聞こえなかったけど、分かった』


その夜、禁止区の南の端の岩の上に、白い影が座っていた。

二番だった。

ベル、と、自分で二回言った女だった。

膝を抱えて、海を見ていた。

一日じゅう、そこで、桶の列を見ていた。

マーロウは、その岩のほうを見た。

白い影は、動かなかった。

ただ、金属の目が、桶を運ぶオットとサムの手元を、じっと追っていた。

第二十三章 了