第三十一章
均衡の日々

それから、半月がたった。
朝は、桶を回した。
禁止区に、列ができる。ブリン。グロムとオークの兵たち。ミラベル。ベル。ニコ。オットとサム。
壁の上には、ウィラがいた。ガスとミアが縄を持っていた。ニムが粒を数えて、ロズリンが書いた。
二時間で、終わる。
それで、一日の釣り合いが取れた。
ニコが海に入って、あいつと話すようになってから、あいつは本当に、ゆっくり食べるようになった。桶の列は、日に日に短くて済むようになった。
壁の灯りは、もう一つも消えなかった。
海の水位も、変わらなかった。
ロズリンは、毎晩、同じ数字を二つ書いた。
変わらず。
変わらず。
それが、一番うれしい数字だった。
街の北の、川の跡は、緑になっていた。
水が、細く流れていた。流れの両側に、膝の高さまで草が伸びていた。光らない草。水で育つ草。
子どもたちが、毎日そこで遊んでいた。大人たちも、ときどき見に来た。立ったまま、長いこと、ただ草を見ていく大人がいた。
ヴェスタが、ある朝、草を一本抜いて、店に持って帰った。
棚の、麻の反物の横に、水を入れた瓶を置いて、挿した。
客が、何だそれは、と訊くと、ヴェスタは答えた。
『草だ』
客が、見れば分かる、と言うと、ヴェスタは口の端を上げた。
『なら、訊くな』
十日目の朝、オットが、桶を渡しながら言った。
「…ガス」
壁の上で、ガスの手が止まった。
縄が、少し滑った。ミアが、慌てて縄の端をつかんだ。
オットは、下から、壁の上を見上げていた。
いつもの、丁寧な顔ではなかった。
眉が、少しだけ寄っていた。
「おまえ、その縄の持ち方、昔から下手くそだな」
それだけ言って、オットは、また丁寧な顔に戻った。次の桶を受け取った。
ガスは、縄を握ったまま、壁の上で、しゃがみこんだ。
『…ったくよぉ』
声が、潰れていた。
『二人して、おれの悪口しか、戻ってこねえじゃねえかよぉ』
ミアが、ガスの背中を叩いた。
「いいじゃん。悪口言えるくらい、戻ってきてるんだよ」
ロズリンの帳面に、新しい欄が一つ増えた。
表紙の裏に、小さく。
ドラグは、それを見つけて、訊いた。
『これは何だ』
「欄です」
『何の』
「私が、帳面に書かなかったことの欄です」
ドラグは、その欄を見た。
一行目に、日付だけが書いてあった。字は、何も書いてなかった。
二行目にも、日付だけ。
三行目にも。
『…何も書いていないな』
「書いていません。書かなかったことの欄ですから」
『いつの日付だ』
ロズリンは、眼鏡を押し上げた。
押し上げた指先が、少し赤かった。
「一行目は、隊長が私の肩に上着を掛けてくださった日です。二行目は、隊長が私の名前を呼んでくださった日です。三行目は」
ロズリンは、そこで言葉を止めた。
ドラグは、三行目の日付を見た。
一たちを見送った朝だった。
ドラグは、何も言わなかった。
言わずに、帳面を、そっとロズリンに返した。
返すとき、指が、少しだけ触れた。
ロズリンは、四行目の欄に、日付を書いた。
今日の日付を。
夕方、マーロウは、壁の上にいた。
ミラベルが、隣に座っていた。
曲がった二本の指を、夕日にかざしていた。
『これさ。もう戻らないんだって。ベルが言ってた。本部の技師でも、たぶん無理だって』
「…悪かった」
『なんで坊やが謝るの』
「あの穴、おれが通すって言った」
『あたしが、通したかったんだよ』
ミラベルは、曲がった指を下ろした。
『後悔してないよ。一回も』
マーロウは、しばらく夕日を見ていた。
海の向こうに、日が沈んでいくところだった。
この街では、夕方、壁の上の線だけが先に燃える。その上に座っていると、自分たちが燃えている線の上にいるようだった。
「ミラベル」
『なに』
「あんたがいて、よかった」
ミラベルは、動かなかった。
茶色い目を、まん丸にして、マーロウを見ていた。
金属の目も、たぶん、まん丸になっていた。
『…今の』
「なんだ」
『今の、もう一回』
「言わない」
『お願い! もう一回! 二百十年ぶんのお願い!』
「一回で足りるだろ」
『足りないよぉぉ!』
ミラベルは、マーロウの肩を、曲がっていないほうの手で、ばんばん叩いた。
叩きながら、顔を真っ赤にして、笑っていた。
壁の下で、ウィラが、それを見上げていた。
ベルと並んで。
「…何してんの、あの二人」
ベルが、首を傾げた。
『一番が、うれしそうです』
「見れば分かるよ」
『では、なぜ訊いたのですか』
ウィラは、ベルを見た。
それから、吹き出した。
第三十一章 了