海壁

第九章

壁の音

挿絵:壁の音

壁の音は、止まなかった。

低くて、長い音だった。耳で聞くというより、足の裏と、歯の奥で聞く音だった。

巨人は、押し続けていた。

押しているところから、何かが落ちていた。

マーロウは、壁の根元に目を凝らした。

黒い砂が、溜まっていた。

さっきまで無かった。巨人の体が触れている幅だけ、壁の根元に黒い砂が山になって、少しずつ高くなっていた。

一粒、拾った。

米の半分ほど。印はない。

「…粒だ」

『うん。粒だね』

ミラベルは、壁に当てていた金属の手を離した。

手のひらを見た。何も付いていなかった。

『この壁、触ったもんを粒にしてる。生き物を通った水だけ』

「あいつを、削ってるのか」

『削ってる。ずっと。押せば押すほど、削られる』

ニコが、しゃがみこんでいた。

両手で耳を押さえていた。

『…痛いって』

ウィラがニコの背中に手を置いた。

「聞こえるの?」

『聞こえない。聞こえないけど、分かる。ずっと言ってる。痛い、痛いって』

巨人の中の星が、壁の側で、少しずつ暗くなっていった。

消えているのではなかった。粒になって、外へこぼれていた。黒い砂の山が、また少し高くなった。


ロズリンが、紙に数字を書いていた。

黒い砂の山の高さと、巨人の背の高さを、灯りで測って見比べていた。

『夜明けまで、このままなら』

「なら」

『半分になります。明日の夜には、残らないと思います』

ロズリンは、眼鏡を押し上げた。押し上げた手が、少し震えていた。

『残らない、という言葉で合っているのか、分かりません。数字だけ書いておきます』

シビルが、壁の剥がれた石の下の金属を、じっと見ていた。

「…この壁は、帝国より古いのか」とドラグが訊いた。

『古いです。帝国の古い記録には、壁を建てたとは書いてありません。壁を直した、と書いてあります』

「直した」

『石を貼った、という意味だったのでしょう。三百年前、帝国ができたとき、この壁はもうここにありました。帝国はそれに石を貼って、自分たちが建てたことにしました』

ドラグは、何も言わなかった。

十四年、この壁の上を歩いた男が、壁の根元で、ただ金属を見上げていた。


マーロウは、巨人を見上げた。

四十メートルの水。何十万の星。

乾いた窪地から、ここまで。後ろに濡れた道と、緑の双葉を残してきたもの。

坑の底で、一が九年、毎朝二時間、百回ずつ沈めていった粒が、全部この中にある。

その粒が今、壁の根元で、黒い砂になっている。

「通してやる」

言ってから、自分の声に驚いた。

考えて言ったのではなかった。考える前に出た。

『…坊や?』

「通してやる。海まで」

『本部は、止めろって言ってるよ。止められないなら壊せって』

「あんたは、やだって返したろ」

『返したけどさ』

「じゃあ同じだ」

ミラベルは、しばらくマーロウを見ていた。

それから、にっと笑った。

『惚れ直した』

「さっきも聞いた」

『何回でも言うよ』

ウィラが、立ち上がっていた。

『あたしも。あたしも通したい』

「理由は」

『理由なんか要る? 草、生やしてくれたじゃん。水、持ってきてくれたじゃん。ニコのこと、触らないでくれたじゃん』

ウィラの声が、途中で詰まった。

『それに、痛いって言ってるんだよ』

マーロウは、ニコを見た。

ニコは耳を押さえたまま、顔を上げていた。目が、真っ赤だった。

『…通してあげられるの?』

「分からん。でも、やる」


ドラグが、壁から顔を離した。

『壁の隊長として言う』

全員が、ドラグを見た。

『壁は、人を通さないために立っている、とおれは教わった。十四年、そう思って立っていた』

ドラグは、黒い砂の山を見下ろした。

『違った。なら、おれが守る理由はもう無い』

「通していいってことか」

『通せ。どこを通す』

マーロウは、壁に沿って、南を見た。

この壁に、穴は一つしかない。

雨のとき、街の水を外へ流すための穴。根元に鉄の格子がはまっている。去年の地震で、格子の三本目が根元から抜けた。

三か月前、その隙間をくぐって、マーロウは壁の外へ出た。

すべてが、そこから始まった。

「排水口だ」

『…あそこか』

「雨の水を外に出す穴だ。水を出すための穴なら、壁の中身にも、そこだけ穴が開いてる」

ニコが、立ち上がった。

耳から手を離して、巨人の前へ歩いた。

『…こっち』

小さな声だった。

『こっちだよ。痛くないところ、あるって』

巨人の中の星が、ゆっくりと、壁から離れた。

黒い砂の山が、それ以上高くならなくなった。

巨人は、寄せて、引いた。

南へ。

ニコの後ろを。


壁に沿って、南へ一キロ歩いた。

排水口は、そこにあった。

壁の根元に、半分地面に埋もれるようにして、四角い穴が開いている。鉄の格子がはまっている。格子の三本目だけが無い。

三か月前と同じだった。

マーロウは、格子に手をかけた。

そのとき、頭の上が、明るくなった。

灯りだった。

壁の上の見張り塔に、次々と灯りが点いていった。一つ、二つ、十、二十。

灯りの下に、兵が並んでいた。

銃を構えていた。

銃口は、巨人ではなく、こちらを向いていた。

壁の上から、声が降ってきた。

『隊長。それ以上、壁に近づけないでください』

ドラグの副長の声だった。

『本部から、報せが来ています。あれを壁に近づける者は、誰であっても撃て、と』

第九章 了