
第一章
空の追っ手

翼は、昼に来た。
南の空に、点が六つ。点はすぐに影になり、影はすぐにグリフォンになった。背中に一人ずつ、人が乗っている。
「ケイルか」
『違う』と後ろを向いたユランが言った。『将軍の兵じゃない。鞍が白い。都の近衛だ』
「命令は」
『都から直接だろうな。将軍が見逃したって、都は見逃さない。あんた、神の血の二人目だもん』
マーロウは舌打ちした。
ケイルは約束を守った。約束を守らないのは、約束していない連中だ。
『代わって!』
ウィラが、御者台に飛び乗ってきた。
御者は、本部から荷車と一緒に来た無口な男だった。ウィラはその男の手から手綱をひったくって、荷台のほうへ押しやった。
「おい、おまえ」
『あたしのほうが速いの! 市場で三番目だよ!』
「それは足の話だろ」
『荷車もだよ! 三年間、誰の荷車引いてたと思ってんの!』
ウィラが手綱を一度しならせた。
二頭の馬が、同時に首を下げた。
荷車が、跳ねるように走りだした。
一騎目が、真上から落ちてきた。
騎手の手から、何かが広がった。網だった。細い鉄の糸で編んだ網が、空いっぱいに開いて、荷車を目がけて降ってくる。
『捕まえる気だよ、坊や! 殺す気じゃない!』
ミラベルが、荷車の幌の上に立っていた。
いつ上がったのか、誰も見ていなかった。
刃が伸びた。網を下から斬り上げた。鉄の糸が、麦の穂みたいにばらばらになって、風に散った。
『はい、一枚目!』
二騎目と三騎目が、左右から同時に来た。
ミラベルは幌を蹴った。
跳んだ。
荷車の上から、空へ。三メートル。五メートル。左から来たグリフォンの背中に、そのまま着地した。
騎手が振り返った。振り返った顔のまま、ミラベルに襟をつかまれて、鞍から放り出された。
騎手は、赤い土の上を三回転がって、止まった。
『あっはは! ねえ坊や見て見て! あたし飛んでる!』
「前見ろ、前!」
グリフォンが、背中の知らない女に気づいて、暴れた。
ミラベルは振り落とされた。落ちながら空中で体を返して、右から来た三騎目の網を、刃で真っ二つにした。
それから、荷車の幌の上に、音もなく降りた。
『二枚目と三枚目! どう、どう?』
「どうじゃねえよ。心臓に悪い」
『え、心配した? 心配したんだ? あっははは!』
ドラグは、荷台の床板を一枚はがしていた。
樫の厚い板だった。長さは大人の背丈ほど。それを両手で持って、荷台の後ろに立った。
四騎目が、低く来た。荷車の真後ろから。
ドラグは、板を振った。
市場の子どもが、棒切れで干し芋を打ち返して遊ぶときの振り方だった。ただし、板は樫で、振っているのはオークだった。
板の平たい面が、グリフォンの顔の横を叩いた。
グリフォンが、横にずれた。騎手が鞍にしがみついた。ずれた先に、ちょうど岩があった。
『四つ』
ドラグは板を構え直した。表情は変わらなかった。
ロズリンが、荷台の隅で紙束を抱えたまま、ドラグの背中を見上げていた。
見上げたまま、一瞬だけ、筆を握る手に力が入った。
五騎目の網は、ミラベルにも、ドラグにも届かない角度から来た。
荷車の横。マーロウの真上。
網が、落ちた。
鉄の糸が、全身に絡みついた。
次の瞬間、体が浮いた。
足の下から、荷車が遠ざかっていった。
網の口が、グリフォンの脚につながっていた。グリフォンが羽ばたくたびに、マーロウの体が、振り子みたいに大きく揺れた。
十メートル。二十メートル。
下で、ウィラの声がした。
『マーロウ!!』
ウィラが、御者台で立ち上がって、手綱を引いていた。荷車の向きを変えて、グリフォンの影を追っていた。
マーロウは、網の目から手を出した。
右手の親指の爪で、左の手のひらを、深く裂いた。
血が出た。
網の上。グリフォンの後ろ脚が、すぐそこにあった。鱗のある、太い脚。
鱗の上からでは、意味がない。血は、むき出しの水にしか効かない。
マーロウは、網の鉄の糸のささくれをつかんで、脚の鱗の隙間を裂いた。
細い傷から、血が滲んだ。グリフォンの血だった。
そこへ、自分の手のひらを押しつけた。
グリフォンが、鳴いた。
聞いたことのない声だった。
つかんだところの鱗の下で、何かが消えた。桶一杯ぶん。グリフォンの脚が、つかんだ場所から、枯れた枝のように細くなった。
羽ばたきが、乱れた。
高さが、落ちた。
騎手が何か叫んで、網の留め金を外した。
マーロウは、網ごと落ちた。
落ちた先に、ドラグがいた。
ウィラが荷車を真下へ滑り込ませていた。荷台の上で、ドラグが板を放り捨てて、両腕を広げていた。
受け止められた。
オークの腕は、網ごと落ちてきた男を、一歩も下がらずに受け止めた。
『…重いな』
「七十二キロだ」
『網の分だ』
六騎目は、来なかった。
残った騎手たちが、空の高いところで一度輪を描いて、南へ引き返していった。脚の細くなったグリフォンが、いちばん後ろを、よろよろとついていった。
荷車が止まった。
ウィラが、御者台から転げ落ちるように降りてきた。
網を、両手で引きちぎろうとした。引きちぎれなかった。ミラベルが横から刃で切った。
『ばか! ばかばかばか! なんで空飛んでんの!』
「飛びたくて飛んだんじゃない」
『知ってるよ!』
ウィラの手が、震えていた。手綱を握りすぎて、手のひらが真っ赤になっていた。
マーロウは、その手を見た。
「…おまえ」
『なに』
「荷車の真下に、ぴったり入れたな。落ちる場所に」
『…だって、落ちてくるの見えたもん』
「今日のは、一番だった」
ウィラの顔が、止まった。
『…え』
「市場で三番目じゃない。今日のは一番だった。誰が引いても、あれはできない」
ウィラの顔が、ゆっくり、くしゃっとなった。
泣くのかと思った。
笑った。
『…へへ。でしょ。でしょぉ? 当たり前じゃん』
ウィラは、赤い手のひらを見せびらかすように振って、御者台へ戻っていった。
その背中が、少しだけ胸を張っていた。
ミラベルが、マーロウの横に来て、しゃがんだ。
『坊やさぁ』
「なんだ」
『あの子に褒め言葉言うとき、声が違うよね』
「…違わない」
『違うよ。あたしに言うときと、全然違う』
「あんたに褒め言葉言ったことないだろ」
『だから言ってんの!』
ミラベルは頬を膨らませて、幌の上に跳び上がった。
三日半、北へ走った。
四日目の夕方、地平線に、見覚えのある線が見えた。
いや、見覚えのある線ではなかった。
掘削地の鉄の塔は、高さ六十メートル、真っ直ぐな線だったはずだ。
今、地平線に見えている線は、途中で折れ曲がっていた。
近づくにつれて、全員が黙った。
塔は、根元から横倒しになっていた。鉄の骨組みが、巨大な手で握りつぶされたように、ねじれていた。
小屋は、一棟も残っていなかった。
穴があった場所は、穴ではなくなっていた。地面ごと、大きく裂けていた。裂け目の幅は、市場の通りを三本並べたくらい。
そして、裂け目から、一本の道が伸びていた。
北西へ。
地面を、何かが這っていった跡だった。赤い土が、深く、広く、えぐれている。幅は川くらいある。それが、地平線の向こうまで、真っ直ぐに続いていた。
マーロウは、荷車から降りた。
跡の縁まで歩いた。
しゃがんで、えぐれた土に、手を置いた。
冷たかった。
冷たさを感じないはずの手が、冷たいと感じた。
手を持ち上げた。
手のひらが、濡れていた。
『…え』
ウィラが、後ろで声を漏らした。
跡の底に、水が溜まっていた。
浅い。指の関節一つぶんもない。でも、水だった。夕日を映して、赤く光っていた。
地平線の向こうまで、ずっと。
乾いた世界を、一本の濡れた線が、北西へ走っていた。
「…水を、連れていってるのか」
誰も答えなかった。
ミラベルだけが、跡の先を、金属の目でじっと見ていた。
第一章 了