第三十二章
石の板

シビルが、ウィラを蔵に呼んだのは、一たちが発って半月後の昼だった。
ウィラは、マーロウの袖を引っぱって、一緒に来た。
蔵の奥の部屋は、静かだった。オットとサムの椅子は、空だった。二人は朝の桶の列に出て、まだ戻っていなかった。
シビルは、部屋の真ん中に伏せていた。
前足の間に、平たい石の板が一枚、置いてあった。
灯台跡で、ウィラが粒と引き換えに彫った板だった。
『お返しします』
ウィラは、板を見た。
それから、シビルを見た。
「…なんで、今」
『帳面の中で、いちばん高い一枚だからです。高いものは、持ち主の手元にあるほうがいい』
「高い? 石だよ、これ」
『石に彫ってある中身が、です』
シビルは、瞬きの遅い金色の目で、ウィラを見た。
『約束どおり、受け取りの一度しか読んでいません。誰にも見せていません』
ウィラは、板を両手で持ち上げた。
彫った面を、自分の胸に向けて抱えた。
しばらく、そうしていた。
それから、マーロウを見上げた。
『…読む?』
マーロウは、ウィラを見た。
「いいのか」
『いいよ。…いや、よくない。恥ずかしい。すっごく恥ずかしい』
ウィラは、板を抱えたまま、足踏みをした。
『でも、読んで』
小さな声だった。
本心を言うときの、あの声だった。
『マーロウに、読んでほしいの。ずっと』
ウィラは、板を、マーロウの手に渡した。
渡してから、くるっと背を向けた。
マーロウは、板を裏返した。
字が、彫ってあった。
太さのそろわない線だった。深いところと、浅いところがあった。一年かけて字を覚えた子が、時間をかけて、一字ずつ彫った線だった。
マーロウの血と
海の水ひとしずく。
消えたのは、海のほう。
マーロウは、消えてない。
あたしが覚えてる。
ウィラ
マーロウは、しばらく、板から目を上げられなかった。
灯台跡の夜を、思い出していた。
十一日目に変わる、と誰もが思っていた夜だった。黒の書の九人と同じように、自分が自分でなくなる、と。
あの夜、この子は、石の板の前に座って、長いこと考えてから、短く彫った。
見ないで、と言った。
恥ずかしいから、と言った。
消えたのは、海のほう。
マーロウは、消えてない。
消えても、何が消えたのか、分かるようにしておく。
三十日かけて坑の底から登りながら、ずっと後回しにしていた答え。孤独の大地で、台帳の白い欄の前にしゃがんで、やっと見つけた答え。
この子は、灯台跡の夜に、もう持っていた。
「…ウィラ」
『なに』
ウィラは、背を向けたままだった。
「こっち向け」
『やだ』
「向けって」
『やだってば。顔、見られたくない』
マーロウは、板を片手に持ったまま、もう片方の手で、ウィラの頭に触れた。
四度目だった。
ウィラの肩が、びくっとした。
「…字、下手だな」
ウィラが、振り返った。
顔が、真っ赤だった。目が、濡れていた。
『マーロウに言われたくない!』
「おれの字、見たことあるだろ」
『あるよ! 坑の底から上がってきた手紙! あれこそ、ほんっとに下手だった!』
「おまえの字も、下手だ」
『うるさいっ!』
ウィラは、マーロウの胸を、拳で叩いた。
一回。
二回。
三回目は、叩かなかった。
拳を開いて、マーロウの服をつかんで、顔を押しつけた。
『…消えてないでしょ』
くぐもった声だった。
『あのとき、あたしが書いたとおりになったでしょ。マーロウ、消えなかったでしょ』
「消えなかった」
『三十年も、行かなくてよくなった』
「行かなくてよくなった」
『一生、ここにいる』
「一生、ここにいる」
ウィラは、顔を押しつけたまま、しばらく動かなかった。
シビルが、部屋の真ん中で、目を閉じていた。
いつもの瞬きより、ずっと長く。
蔵を出るとき、マーロウは、板を上着の内側に入れた。
一から預かった、十三人の番号の紙と、同じ場所に。
『それ、持ってくの?』とウィラが訊いた。
「持ってく」
『重いでしょ』
「重くない」
ウィラは、少しだけ笑った。
欠けた前歯から息が漏れる、いつもの笑い方だった。
『…痛くないのと、同じ?』
マーロウは、少し考えた。
「違う」
『どう違うの』
「痛くないのは、感じないからだ。これは、感じてて、重くない」
ウィラは、きょとんとした。
それから、ぷいと前を向いた。
耳まで、赤かった。
第三十二章 了