第十二章
嘘

マーロウは、振り返った。
ウィラが、ニコを抱いたまま、こちらを見ていた。
海の星が、ウィラの頬の濡れたところに映っていた。
「…三十年だ」
言った。
嘘を重ねる言葉は、いくつも浮かんだ。一つも口から出なかった。この子には、もう使えない。
「本部と約束した。三十年、あそこの建物の中にいる。おれの体から、百六人ぶんの材料を取る。そのかわりに、一を坑の底から上げさせた。台帳の名前の欄を、全部埋めさせた」
ウィラは、動かなかった。
「期限は百二十日。あと八十九日だ」
ニコが、ウィラの腕の中で、そっと身をよじって、離れた。
ウィラの腕が、空っぽになった。
『…三十年?』
「三十年だ」
『三十年たったら、あたし、四十五だよ』
「知ってる」
『知ってて、約束したの』
「した」
『知ってて、帰ったら一緒に暮らせるって言ったの』
「言った」
ウィラの顔が、ゆっくり、崩れていった。
『嘘つかれるの嫌いだって、知ってたじゃん』
「知ってた」
『知ってたのに』
「知ってたから、言えなかった」
『そんなの理由になんないよ!』
声が、壁の上に響いた。見張り塔の兵が、何人か振り返った。
『三年だよ! 三年、嘘つかなかったじゃん! 一回も! ぜんぶ本当のこと言ってくれたじゃん! だから、あたし、マーロウのこと、信じてたのに』
そこで、言葉が切れた。
ウィラは、唇を噛んだ。
それから、縄梯子へ走った。
マーロウは、追わなかった。
追う資格が、今夜の自分には無い気がした。
ガスが、横に来た。三本の指で、マーロウの肩を一度だけ叩いた。何も言わなかった。
ドラグとロズリンは、少し離れたところで、黙って海を見ていた。
ブリンでさえ、笑わなかった。
ウィラは、梯子の下で、止まっていた。
止められていた。
壁の上まで、二人の声は届いた。マーロウは、下りなかった。
ミラベルが、梯子の下に座っていた。曲がった二本の指を胸に抱えて。
『お。来た来た』
「どいて」
『どかない』
「どいてってば!」
『やだ』
ウィラは、ミラベルを睨んだ。
「…あんたも、知ってたの」
『知ってたよ。本部から聞いてた。坊やが条件を三つ出して、三つとも通して、その代わりに三十年』
「なんで言わなかったの」
『坊やが言ってないこと、あたしが言うのは筋が違うでしょ』
ウィラの手が、上がった。
ミラベルは、避けなかった。
頬に、乾いた音がした。
ミラベルは、叩かれた頬に、曲がっていないほうの指で触れた。
それから、にっと笑った。
『いい手首してるねぇ、嬢ちゃん』
ウィラは、その場に座り込んだ。
膝を抱えて、顔を埋めた。
ミラベルは、何も言わずに、隣に座った。
しばらく、波の音だけがしていた。壁の向こうから。
「…あんた、マーロウのこと好きなんでしょ」
『好きだよ。大好き』
「じゃあ、なんで平気なの」
『平気じゃないよ』
ミラベルは、夜空を見上げた。
『ぜんっぜん、平気じゃない。三十年、あの白い建物の中で、坊やが材料取られてんの、あたし、一番近くで見ることになるんだよ。本部の持ち物だから』
ウィラが、顔を上げた。
『嫌だよ。嫌に決まってんじゃん』
ミラベルの声が、少しだけ細くなった。
『二百十年で、あたしの前を走ってくれたの、坊やだけなんだよ』
ウィラは、ミラベルの横顔を見ていた。
茶色い目と、金属の目。茶色いほうが、濡れていた。
「…じゃあさ」
『うん』
「破らせよう。あの約束」
ミラベルが、ゆっくりウィラを見た。
「マーロウは、約束は守るやつなの。三年見てきたから知ってる。だから、あいつに破らせるんじゃなくて、破らなくていいようにするの。三十年の代わりになるもの、見つけるの」
『代わりって?』
「分かんない。分かんないけど、探す。本部が欲しがってるもの、ほかにもあるはずでしょ」
ミラベルは、しばらく黙っていた。
それから、声を上げて笑った。
『あっはは! いいねぇ、嬢ちゃん。いいじゃん、それ』
ミラベルは、曲がっていないほうの手を、ウィラの前に出した。
『乗った。あたしも探す。本部のことなら、あたしが一番知ってる』
ウィラは、その手を見た。
それから、握った。
「ほっぺた、ごめん」
『いいよ。あれで決めたから。嬢ちゃんと組むって』
マーロウが梯子を降りたとき、二人は並んで座っていた。
ウィラが立ち上がった。
マーロウの前まで来て、止まった。
顔が、まだ濡れていた。
『許さない』
「…ああ」
『嘘ついたこと、許さない。一生、許さない』
「分かった」
『でも』
ウィラは、マーロウの服の胸を、両手でつかんだ。
『行かせない』
小さな声だった。
本心を言うときだけ小さくなる、あの声だった。
『三十年なんて、行かせない。あたしが何とかする』
マーロウは、何も言えなかった。
言えないまま、ウィラの頭に手を置いた。
三度目だった。
ウィラは、その手を払わなかった。
第十二章 了