第二十九章
一

一は、ニムの店の奥の、椅子に座っていた。
座り方が、下手だった。九年、石の床に座ってきた男だった。椅子の背に寄りかかっていいのか、分からないという顔をしていた。
ニムが、干した杏を一つ、一の手に押しつけた。
「食え。糖が足りとらん顔しとる」
一は、杏を見た。
『…食べ物か』
「食べ物以外の何に見えるわ」
『すまん。すまんな』
一は、杏を口に入れた。噛んだ。
それから、しばらく、何も言わなかった。
噛むのを、やめていた。
『…甘い』
一は、目を閉じた。
『甘いな。甘いぞ、これ』
ウィラは、戸口に立っていた。
入ってこなかった。
一が、顔を上げた。ウィラを見た。
『…嬢ちゃん』
ウィラの顔が、くしゃっとなった。
走ってきた。
一の胸に、頭からぶつかった。
椅子が、後ろに傾いた。ニムが慌てて椅子の背を押さえた。
「握手じゃ、足りないもん」
ウィラの声が、一の胸に埋もれていた。
「握手、ありがとうって、言ったでしょ。あれ、ずるいよ。伝言だけ残して、いなくなって」
一の両手が、宙に浮いていた。
どうしていいか、分からない手だった。
それから、ゆっくり、ウィラの背中に下りた。
『…すまん。すまんな』
二回、言った。
一回目より、二回目のほうが、小さかった。
夜、ケイルが、ヴェスタの店の寝台で目を覚ました。
背中に、三十針の縫い目があった。翼は、もうなかった。
一が、枕元に座っていた。マーロウとドラグが、その後ろに立っていた。
ケイルは、一を見て、少しだけ笑った。
『…落ちんで、済んだか』
「済んだ。おかげでな」
『礼はいらん。都の者が約束を守らなかったのが、気に食わなかっただけだ』
ケイルは、天井を見た。
『畑の話を、しておく』
ケイルの話は、短かった。
都の者が一を畑から連れ出してから、十日。畑の草の光は、半分になった。
二万人の息は、続いている。ただ、細くなっている。
『二か月は、保たん』
ケイルは、はっきり言った。
『畑の番は、おれの部下だ。都の者ではない。おれがいない間も、管は外さん。ただ、光が戻らなければ、寝ている連中は、痩せていく』
一は、黙って聞いていた。
手の中の、食べかけの杏を見ていた。
「…おれが戻れば、光るか」
『光る。おまえを連れ出した日まで、あそこは一番明るい畑だった』
マーロウは、一を見た。
「戻る気か」
『戻る』
一は、迷わなかった。
「都の連中が、また来るぞ。あんたを都に運ぼうとする」
『来るだろうな』
「畑に戻ったら、二度と出られないかもしれん」
『かもしれん』
一は、杏を口に入れた。噛んで、飲み込んだ。
『だが、二万人おる。誰も名乗っとらん。誰も待たれとらん。前に言ったろう』
「言った」
『今は、違うことが一つある』
一は、戸口のほうを見た。
ウィラが、そこで膝を抱えて座っていた。
『待っとる人間が、ここにおる。ここにおると、分かっとる。だから、戻れる』
一は、少しだけ笑った。笑い方を、少し思い出した笑い方だった。
『帰る場所があるやつのほうが、遠くへ行けるもんだな。九年、知らんかった』
ケイルが、寝台の上で、体を起こそうとした。
ドラグが、肩を押さえた。
『…おれが案内する』
「その背中でか」とドラグが言った。
『背中は、歩くのには使わん』
ケイルは、弟を見上げた。
『翼がないのは、三年ぶりだ。歩くのは、慣れとる』
戸口の外で、足音がした。
背骨でつながった双子が、立っていた。
前を向いたヨルンと、後ろを向いたユラン。
「おれたちも、行く」とユランが言った。
前を向いたヨルンが、続けた。
「道は、おれたちが知ってる。都の見張りの場所も」
ケイルが、双子を見た。
二年前、医者が二人をつなげたとき、止めなかった男だった。
『…おまえたちを、つなげさせたのは、おれだ』
「知ってる」とユランが言った。
ヨルンが、前を向いたまま言った。
「だから、今度は、おれたちが選ぶ。誰と行くか」
ケイルは、長いこと、双子を見ていた。
それから、寝台の上で、頭を下げた。
深く。
ドラグの顔が、動いた。
兄が頭を下げるのを、この男はたぶん初めて見たのだと、マーロウは思った。
第二十九章 了