第二十章
半分の名前

ミラベルは、星の中に浮かんでいた。
仰向けで。波に揺られて。
海の中の星が、ミラベルの背中の下に集まって、光っていた。沈まないように、そこだけ海が固くなっているように見えた。
二番が、刃を振り上げたまま、止まっていた。
『…個体が、一番を支えています』
抑揚のない声に、ほんの少しだけ、何かが混ざっていた。
驚き、に近いものだった。
『理由が、分かりません』
「あたしにも分かんないよ」
ミラベルは、仰向けのまま、笑った。
「でもさ。あたし、あいつを守ろうとしたから。あいつも、あたしを守ってくれてるんじゃない?」
『個体に、意思はありません』
「じゃあ、なんで支えてんの」
二番は、答えなかった。
ミラベルは、ゆっくり体を起こした。
海の上に、立った。星が、足の下で散って、また集まった。
二番と、向き合った。
同じ顔が、二つ。
片方は笑っていて、片方は笑い方を知らなかった。
「ねえ、二番」
『はい』
「あたしね、昔、番号で呼ばれてた。一番。二百十年前。本部の中で、腕をつながれて、目を入れられて」
二番は、刃を振り上げたまま、聞いていた。
「最後に、オスカーって爺さんが、名前をつけてくれた。ミラベル。毎朝、おはようミラベルって言うの。あたしが返事しなくても。十年、毎朝」
『その記録は、私にもあります。一番の製造記録の、最後の頁に』
「最後の頁に、なんて書いてある」
二番は、少しだけ首を傾けた。
ミラベルと同じ角度で。
『名前、ミラベル。命名者、オスカー・グリム。記録の必要なし、と本部が注記しています』
ミラベルは、声を上げて笑った。
「あっはは。本部らしいねぇ」
「あんたさ、名前、欲しくない?」
二番の刃が、ほんのわずかに下がった。
『名前は、識別に使いません。番号があります』
「識別の話はしてないよ」
ミラベルは、曲がった二本の指を、二番の前に出した。
「あたしの名前、半分あげる」
『半分』
「ミラベル。ミラと、ベル。あたしは、ミラでいい。あんたは、ベル」
二番は、動かなかった。
金属の目が、瞬きをしないまま、ミラベルの指を見ていた。
「オスカー爺さんのくれた名前だよ。二百十年、あたししか持ってなかった。半分こしても、あの爺さん、怒らないと思う」
『…ベル』
二番が、その音を口にした。
一度。
『ベル』
二度。
口にするたびに、声の中の平らなところが、少しずつ、崩れていくように聞こえた。
壁が、鳴った。
足元の海の底からではなかった。遠く、背中の壁から、声が海を渡ってきた。
『二番。個体を壊してください。最優先です』
二番の肩が、びくりと動いた。
刃が、また上がった。
ミラベルは、避けなかった。
避けずに、言った。
「ベル」
刃が、止まった。
「呼ばれたら、振り向くやつ。それが名前」
二番は、刃を振り上げたまま、ミラベルを見ていた。
それから、背中の壁のほうを、振り返った。
それから、もう一度、ミラベルを見た。
『…二つ、呼ばれています』
「うん」
『どちらに振り向けばいいのか、分かりません』
「分かんなくていいよ。分かんないうちは、どっちにも振り向かなくていい」
ミラベルは、にっと笑った。
「あたしも、二百十年、分かんなかったもん」
二番は、刃を引っ込めた。
両腕の中に、音もなく。
それから、何も言わずに、海の上を歩きだした。
壁のほうへではなかった。沖のほうへでもなかった。
禁止区の、南の端。壁と海が交わるあたりの、岩の上へ。
そこで、座った。
膝を抱えて。海を見て。
マーロウは、波打ち際で、それを見ていた。
「…止まったな」
ミラベルが、海から上がってきた。全身から、星の光る水が滴っていた。
『止まったね』
「どうなる、あいつ」
『分かんない。でも』
ミラベルは、岩の上の白い影を振り返った。
『ベルって、二回言ったよ。自分で』
ミラベルの茶色い目が、濡れていた。
海の水のせいだけではなかった。
乾いたところの端で、ウィラがニコを抱きしめていた。
ニコは、耳から手を離していた。
『…痛くなくなった』
「ほんと?」
『うん。あいつ、もう、痛いって言ってない』
ウィラは、ニコの頭を撫でた。
それから、マーロウのほうへ叫んだ。
『ねえ! さっきの! 回るって、何!』
マーロウは、ウィラのほうへ歩いた。
濡れた地面から、乾いた地面へ。
「本部が二百九十年、見つけられなかったやつだ」
『なにそれ』
「燃料と水、両方を満たす答えだ」
ウィラの目が、大きくなった。
マーロウは、星の海を振り返った。
「おまえが探してた、三十年の代わりかもしれない」
第二十章 了