海壁

第二十六章

交換

挿絵:交換

夜明けの禁止区は、白かった。

濡れた白い地面に、朝の光が薄く張りついていた。海は、まだ光っていた。星が、夜より少し淡くなっていた。

先頭の空船が、低く下りてきていた。

腹から、鉄の台が一つ、鎖で吊られて下りてきた。

台の上に、一が立っていた。手首を縛られたまま。

台の縁に、ケイルが立っていた。翼をたたんで。

マーロウは、壁の根元から、歩きだした。

乾いたところを出て、濡れた地面へ。一歩ずつ。

後ろで、誰も声を出さなかった。

壁の上に、ウィラがいた。ガスが縄を握っていた。グロムの兵たちが、泥から掘り出した銃を構えていた。

禁止区の南の岩の陰に、ミラベルとベルがいた。

ニコが、波打ち際で、腰まで海に入っていた。


台が、地面から三メートルのところで止まった。

マーロウは、禁止区の真ん中で止まった。

台の上から、一が見下ろしていた。

「よう」

『…来るなと言ったろう。来るなと』

「来た」

『馬鹿か。馬鹿だな、おまえは』

一の声が、震えていた。

『畑に植えられるぞ。二万人ぶんの、肥やしにされるぞ』

「知ってる」

『知っとるなら、なんで』

マーロウは、答えなかった。

ケイルを見上げた。

「降ろせ。約束だろ」

ケイルは、頷いた。

台の鎖が、ゆっくり下がりはじめた。


その時、後ろの二隻の腹が、開いた。

光の柱ではなかった。

槍だった。

何十本もの、先の回る長い槍が、鎖に吊られて、一斉に、海へ落ちていった。

海面に、突き刺さった。

星が、弾けた。

ニコが、悲鳴を上げた。

『痛い! 痛いって! やめて、やめてよぉ!』

槍の刺さったところから、海が黒くなった。黒い粒が、槍の中を吸い上げられていくのが見えた。

ケイルが、振り返った。

後ろの二隻を。

その顔が、はっきりと歪んだ。

『…約束が違う』

風に乗って、ケイルの声が届いた。

『交換の前だぞ! 都の者は、約束も守れんのか!』


岩の陰から、白い影と、継ぎはぎの影が、同時に跳んだ。

ベルが、海の上を走った。二本の刃で、槍の鎖を、左右同時に断った。

ミラベルが、反対側から走った。一本の刃で、一本ずつ。曲がった指で、刃がぶれた。ぶれながら、断った。

断たれた槍が、海に沈んでいった。

壁の上で、グロムが叫んだ。

『撃て! 歯車だ! 人は撃つな!』

銃声が、朝の空に響いた。

二隻目の腹の、鎖を巻き上げる大きな歯車に、火花が散った。二発。三発。歯車が、軋んで、止まった。

『牛、六十頭!』とグロムが叫んだ。『使い切れ!』


ニコが、海の中で、両手を広げていた。

泣いていた。泣きながら、星の上に手を置いていた。

『お願い』

小さな声だった。

『押し返して。あの船を。痛いの、全部、押し返して』

海が、息を吸った。

そう見えた。

波打ち際の水が、すうっと沖へ引いた。濡れた白い地面が、一瞬だけ、乾いた頃と同じ広さに戻った。

それから、沖で、海が立ち上がった。

星を抱えた水の壁が、ゆっくりと、高く、高く。

二隻目の空船の、腹の高さまで。

それを、越えて。

水の壁が、空船の腹を、下から叩いた。


三百メートルの船が、傾いた。

腹から、残っていた槍と鎖が、ばらばらと海へ落ちた。

船は、南へ、よろめくように離れていった。三隻目が、それを追うように、向きを変えた。

先頭の船も、揺れた。

波の余りが、先頭の船の腹を、下から押し上げた。

三百メートルの船体が、ぐうっと持ち上がった。

吊られていた台も、一緒に跳ね上がって、大きく振られた。

台の上で、一が、よろけた。

縛られた手では、どこにもつかまれなかった。

一が、台から、落ちた。

十メートル下の、濡れた地面へ。

マーロウは、走った。

間に合わなかった。

間に合わない距離だった。


翼が、横から来た。

灰白色の翼が、落ちていく一の体を、空中でさらった。

ケイルだった。

右が遅れる羽ばたき方で、一を抱えたまま、低く、長く滑って、禁止区の乾いたところに降りた。

壁の根元に。

ドラグの、目の前に。

ケイルは、一を地面に下ろした。

一の手首の縄を、自分の爪で切った。

それから、立ち上がって、弟を見た。

『…都は、約束を守らなかった』

ドラグは、黙って兄を見ていた。

『だから、おれも守らん』

ケイルは、海の上で離れていく二隻を振り返った。

その顔に、何かが決まっていた。

翼が、半分開いた。

『ドラグ。一つ頼みがある』

「言え」

『もう一度、あの船に戻る。都の提督を、引きずり下ろしてくる』

ケイルは、壁の下の乾いたところで伏せている、翼のない獅子を見た。

『戻ってこなかったら、この翼は、あの獅子に返せ。おまえが、根元から取って』

ドラグの顔が、動いた。

『昔から、組むのは、おまえのほうが上手かったからな』

ケイルは、跳んだ。

右が遅れる羽ばたき方で、朝の空へ。

離れていく二隻を、追って。

第二十六章 了