海壁

第五章

刃への命令

挿絵:刃への命令

空船は、巨人の真上で止まった。

腹が、開いた。

光の柱ではなかった。

鎖だった。

太い鉄の鎖が、何十本も降ってきた。一本一本の先に、人の背丈ほどもある鉤がついていた。

鉤が、巨人の水面に、突き刺さった。

巨人が、震えた。

音はしなかった。音はしなかったのに、地面が揺れた。荷車の馬が二頭とも棹立ちになった。

鉤の刺さったところから、水が噴き出した。噴き出した水と一緒に、黒い粒が、空へ散った。

粒が、降ってきた。

黒い雹のように。荷車の幌を、ぱらぱらと叩いた。

『痛いって言ってる』

ニコが、両耳を押さえていた。

『聞こえないけど、分かる。痛いって』


空船の腹から、台が降りてきた。

鉄の板を組んだ、大きな台だった。十人ほどが乗っていた。台の真ん中に、長い槍のようなものが据えてあった。槍の先が、ゆっくり回っていた。

『掘るつもりだ』とヨルンが言った。『あの槍で、中の粒だけ吸い出す。水は捨てる』

「水を捨てる?」

『共和国に水は要らない。要るのは粒だけだ』

マーロウは、跡の緑の帯を見た。

五日かけて伸びた、双葉の列を。

ミラベルが、荷車の幌の上に立っていた。

いつものように、あくびはしていなかった。

「おい」

『うん』

「あんたは、あれを押さえるために作られたんだろ」

『そうだよ』

「押さえるのか。守るのか。どっちだ」

ミラベルは、振り返らなかった。

空船を見上げたまま、言った。

『二百十年かけて、やっと会えたんだよ、坊や』

刃が、伸びた。いつもの長さの、倍まで。

『会ったばっかりで、他人に壊されるのは、やだねぇ』


ミラベルが跳んだ。

荷車から、巨人へ。巨人の水面に一歩着いて、水を蹴って、また跳んだ。

水の上を、走っていた。

中の星が、ミラベルの足元で散って、また集まった。

一本目の鎖に届いた。刃が、鎖を断った。鉤が、巨人の体から抜けて、落ちた。

二本目。三本目。四本目。

ミラベルは、鎖から鎖へ跳び移りながら、断っていった。断たれた鎖が、空から降ってきて、赤い土に突き刺さった。

『あっははは! ねえ坊や! 見て見て! 水の上走ってる!』

「前見ろって言ってんだろ!」

グリフォンが、四騎、ミラベルに襲いかかった。

ミラベルは、鎖の上で体を回した。刃が、円を描いた。

四騎の鞍の革紐が、同時に切れた。騎手が四人、同時に、巨人の水の中へ落ちた。

水は、騎手たちを、そっと押し出した。赤い土の上に。濡れて、咳き込んで、生きていた。


台は、まだ降りてきていた。

回る槍の先が、巨人の水面まで、あと十メートル。

「ドラグ!」

『分かっている』

ドラグが、断ち落とされた鎖を一本、拾い上げた。鉤ごと。

振り回した。

頭の上で、二回、三回。鎖が風を切る音がした。

投げた。

鉤が、台の手すりに引っかかった。

ドラグは、鎖を引いた。

台が、傾いた。

『…昔から、投げるのと、組むのだけは上手いんだ』

ドラグは、誰にともなく言った。

マーロウは、傾いた台に向かって、走った。

ブリンが、横を走っていた。左腕を吊ったまま。

『右で殴れると言ったろう!』

「言ってた」

『今から殴る!』

台の端が、地面すれすれまで下がっていた。マーロウとブリンは、端に飛び乗った。

ブリンの右の拳が、最初の兵の顎を下から打ち上げた。兵は台の外へ飛んでいった。

『あっはっは! 二か月ぶりに殴った! 気持ちいい!』


槍の横に、兵が三人いた。

一人が、刃物を振った。マーロウの二の腕が、裂けた。

血が出た。

台の縁から、下を見た。

真下に、巨人の水面があった。

マーロウは、裂けた腕を、もう片方の手で握りしめた。

一滴も落とすな。

この血が一滴でも水面に落ちたら、桶一杯ぶん、巨人が消える。

「ブリン! こいつら頼む!」

『任せろ!』

マーロウは、腕を握ったまま、槍の根元に体当たりした。

槍の軸が、台の留め金から外れた。

回ったまま、倒れた。

倒れた先は、巨人の水面ではなかった。台の上だった。回る先端が、台の床の鉄板を削って、火花を散らした。

兵たちが、逃げた。

巨人が、動いた。

鉤がすべて外れた体で、大きく、寄せた。

水が、台を下から押し上げた。

台が、空へ跳ね上がった。

マーロウとブリンは、跳ね上がる直前に、台の端から転げ落ちた。赤い土の上に。

ドラグが、鎖を放した。

台は、空船の腹にぶつかって、大きな音を立てた。


空船が、上がっていった。

ゆっくり、高く。南へ向きを変えて、グリフォンを引き連れて、去っていった。

最後に、一騎だけ、空の高いところで輪を描いた。

右の翼が、遅れていた。

その一騎は、何もせずに、南へ消えた。

ドラグは、見上げなかった。

巨人は、濡れていた。

いや、もともと水だった。そういう意味ではなかった。鉤の刺さっていたところから、水が漏れ続けていた。漏れた水が、地面に大きな水たまりを作っていた。

中の星が、少し減っていた。

巨人は、寄せて、引いた。

さっきより、少し速く。

西へ。

ミラベルが、巨人の水面から跳んで、マーロウの横に降りた。

髪から水が滴っていた。服もびしょ濡れだった。

『坊や、腕』

「落としてない。一滴も」

『…知ってる。見てた』

ミラベルは、マーロウの裂けた腕を、自分の手のひらで押さえた。金属ではないほうの手で。

『あれを守るために、自分の血、握りしめてたね』

「…悪いか」

『悪くない。すごくいい。惚れ直した』

「直すな」


サイラスが、荷車の陰から出てきた。

手に、硝子の板を持っていた。

板の中に、白い字が浮かんでいた。

サイラスは、板をしばらく見ていた。それから、黙って、ミラベルのほうへ差し出した。

ミラベルが、覗き込んだ。

マーロウも、横から見た。

刃へ。

個体を止めよ。

止められないなら、壊せ。

ミラベルは、しばらく、その三行を見ていた。

濡れた髪から、水が一滴、板の上に落ちた。

三行目の上に。

『…やだなぁ』

小さな声だった。

ミラベルが、こんな小さな声を出すのを、マーロウは初めて聞いた。

第五章 了