第二章
濡れた道

濡れた跡に沿って、西へ走った。
荷車の車輪が、ときどき跡の縁を踏んだ。そのたびに、水が小さく跳ねた。
ウィラは、その音がするたびに、御者台から振り返った。
『ねぇ、今の聞いた? ぴちゃって』
「聞いた」
『荷車が水踏んだんだよ。水だよ? 道の上に水があるんだよ?』
「触るなよ。海の水だ」
『分かってるってば。見てるだけ』
ウィラは前を向いた。
向いてから、また振り返った。
夕方、哨所が見えた。
三十メートルの鉄の塔は、真ん中から折れて、上半分が地面に刺さっていた。石積みの低い囲いは、跡が通った幅だけ、きれいに無くなっていた。
小屋が半分、潰れていた。
残りの半分から、煙が上がっていた。
飯を炊く煙だった。
最初に来たのは、犬だった。
茶色くて、脚が短くて、片耳が垂れている。潰れた小屋の陰から飛び出してきて、荷車の車輪に一度ぶつかって、転んで、起き上がって、御者台に飛び乗った。
『ボロ!? ボロだぁ!』
ウィラが手綱を放り出した。馬が止まった。ウィラは犬を両腕で抱えて、顔じゅうを舐められていた。
『くさい! くさいってばぁ! あはは、やだ、くさい、ボロ、あんた生きてたの!?』
ボロは返事の代わりに、ウィラの靴を片方くわえて、荷台から飛び降りた。
『あっ、ちょっと! それあたしの靴! 返してぇ!』
笑い声が、小屋のほうから響いた。
『あっはっは! またやりおった! その犬は靴しか盗まんのだ!』
ブリン・ハスケルだった。
左腕を布で吊っていた。額に包帯が巻いてあった。それでも、奥歯が三本ない口を大きく開けて、笑っていた。
『帰ってきたか、帰ってきたなぁ! 生きとったか拾い屋! 死んだと思っとったぞ!』
「そっちこそ」
『わしか! わしは死なん! オークは頑丈なんだ!』
ブリンは、吊った腕のまま、マーロウの背中を右手で叩いた。
三回叩いた。三回目が、少し強かった。
『ハーランから伝言は聞いたぞ。犬に靴を食わせるな、だとな。無理だ! あっはっは!』
ハーランと十九人の坑夫は、全員生きていた。
哨所に着いたのが、あれの来る二日前だったという。
ハーランは、潰れていない小屋の前に座っていた。火傷のない側の顔で、マーロウに小さくうなずいた。それだけだった。それで足りた。
飯は、豆と芋だった。二か月前と同じだった。量は、半分になっていた。
ブリンは、椀を持ったまま話した。
『夜だった。音はせんかった。ボロが先に気づいた。ずっと東に向かって吠えてな。何を吠えとるんだと外に出たら、あれがおった』
「どんなだった」
ブリンは、椀を置いた。
それから、両腕を広げようとして、左が吊ってあるのを思い出して、右だけ高く上げた。
『でかい。塔より高かった。長さは、おまえらの街の市場の通りくらいか。それが、水でできとった』
「水で」
『向こうが透けて見える水だ。月の光が中に入って、揺れとった。その水の中に、黒い粒がな』
ブリンは、指を小さく動かした。
『何万も、何十万も、浮かんどった。星みたいにちかちか光ってな。空の星と、あれの中の星と、どっちが多いか分からんかった』
マーロウは、坑の底を思い出した。
毎朝二時間。百回。作った端から、深さの分からない水の底に沈んでいった粒。九年ぶん。
『それが、波みたいに動くんだ。地面の上を。寄せて、引いて、寄せて、引いて、そのたびに前に進む』
「襲ってきたのか」
『襲わん。わしらのことなんぞ見もせんかった。ただ通っただけだ。通った道にあったもんが、全部壊れただけだ。塔も、囲いも、わしの腕も』
ブリンは、吊った腕を顎で指した。
『逃げ遅れたら、囲いの石がな、飛んできた。あれのせいじゃない。石が悪い』
言って、また笑った。
笑ったが、今度は、奥歯の抜けたところが見えるほどは口を開けなかった。
飯のあと、ブリンが一人の子どもを連れてきた。
十二歳くらいの男の子だった。痩せていた。黒い髪がぼさぼさで、目が大きくて、頬が熱で赤かった。
『ニコ・ベルナールだ。坑夫の甥っ子でな。叔父についてきて、哨所で下働きをしとった』
ニコは、マーロウを見上げた。
見上げたまま、黙っていた。
『あれが通った次の日、この子は熱があった。ひどい熱だった。水が足りんで、みんな半分しか飲めんかった』
ブリンの声が、少しだけ低くなった。
『夜中に、一人で起きて、あの跡の水を飲んだ』
マーロウは、ニコの顔を見た。
頬が赤い。熱のせいだけではないのかもしれない。
「…何日前だ」
『五日前だ』
「それから、何か変わったか」
『熱は下がった。飲んでから、嘘みたいに下がった』
ブリンは、ニコの頭に手を置いた。
『わしも飲んだぞ。塩辛い。オークは平気だ。だがこの子は人間だ。海の水には触るなと、小さい頃から教わっとったはずなのにな』
ニコが、初めて口を開いた。
『…ごめんなさい』
小さな声だった。
『喉が、痛くて。死ぬかと思って。触っちゃいけないって知ってたけど、でも、水だったから』
マーロウは、しゃがんだ。
ニコと目の高さを合わせた。
「謝るな」
『でも』
「喉が痛くて水を飲んだやつに、謝る理由はない」
マーロウは、ニコに、隠さずに話した。
ウィラが横で、何か言いたそうにしていた。子どもにそんなこと言わなくても、という顔だった。マーロウは、それでも話した。
海の水に浸かると、体がそれを欲しがるようになる。浸かった量や、飲んだ量が蓄えになる。蓄えが切れると、十一日目あたりで、自分が自分だという感じが消える。
ニコは、黙って聞いていた。
聞き終わって、訊いた。
『…あと六日?』
「飲んだ量によるが、そのくらいだ」
『治らないの?』
「治る」
ニコの目が、大きくなった。
「三か月、海の水を切らさなければ治る。坑の底で、九年それをやってた男がいた。そいつは治った」
『三か月も、海の水なんて…』
ニコは、そこで言葉を止めた。
止めて、哨所の真ん中を通っている、濡れた跡のほうを見た。
マーロウも、見た。
跡は、月の光を映していた。
二か月前、この世界のどこにもなかったものが、地平線の端から端まで、一本の線になって光っていた。
『…あの跡を、ずっと追いかけていけば』
「ああ」
『海の水、切れない?』
「切れない。あれが通った道には、ずっと水がある。行き先は、たぶん海だ」
ロズリンが、横から小さく言った。
『行き先は、海壁の街です。本部の報せでは』
ニコは、マーロウを見た。
それから、ウィラを見た。
『…一緒に、行っていい?』
答えたのは、マーロウではなかった。
ウィラだった。
ウィラは、ニコの前にしゃがんで、ニコの頭を両手でわしゃわしゃと撫でた。
「いいに決まってんじゃん。あたし、ウィラ。市場で三番目に速いの。荷車は一番」
『…一番?』
「一番。この前、そう言われたもん。ね、マーロウ」
マーロウは、何も言わなかった。
何も言わなかったので、ウィラは得意そうに鼻を鳴らした。
三年前、市場で勝手についてきた子どもが、今、別の子どもの頭を撫でていた。
ブリンも、来ることになった。
『哨所は壊れた。管も来ん。荷車も来ん。わしがここにおっても、豆を炊く相手がおらん』
「腕が折れてるだろ」
『右は折れとらん。右で豆は炊ける。右で殴れる』
「殴る相手がいるかどうか分からんぞ」
『おるさ。おらんかったら、豆を炊く』
ブリンは、笑った。
ボロが、ウィラの靴をくわえたまま、ブリンの足元に座った。
『こいつも来る。靴を盗む相手がおらんと、こいつは痩せるからな』
ハーランと坑夫たちは、哨所に残ると言った。
壊れた小屋を直して、跡の水で畑を作る、と言った。
「海の水で畑が作れるのか」とマーロウが訊いた。
『分からん。分からんから、試す』
「手を入れたら十一日だぞ。さっきの話、聞いてたろ」
『聞いていた。だから、手を入れるのはオークだけにする』
ハーランは、潰れていない小屋の前に並んでいる坑夫たちを、顎で指した。
『十九人のうち、六人がオークだ。水路を掘るのは人間でいい。掘った溝に、オークが水を通す。人間は、乾いた側から種を蒔く』
「それでも、誰かが触る」
『手を入れた者が出たら、跡のそばに寝かせる。海の水を切らさなければ、進まんのだろう。三か月で戻るとも聞いた』
「…よく聞いてたな」
『九年、人を籠に乗せて下ろしてきた。乗せる前に訊かなかったことを、今さら訊いとる』
ハーランは、火傷のない側の顔で、少しだけ笑った。
『九年、空と書いた紙に判を押してきた。これからは、試したことを書く』
その夜、ボロが吠えた。
西に向かってだった。
全員が、小屋から出た。
濡れた跡の、ずっと先。地平線の近く。
灯りが一つ、揺れていた。
跡に沿って、こちらへ、ゆっくり近づいてくる。
ミラベルが、刃を半分だけ伸ばした。ドラグが、樫の板を手に取った。
灯りが、近づいた。
灯りを持っているものの形が、月の下で見えてきた。
大きかった。四本の脚で歩いていた。体の下半分が、獣だった。灰白色の毛が、月の光を受けて、骨の色に見えた。
肩から上が、女だった。銀に近い白い髪を、太い三つ編みにして、片側に流していた。
背中に、翼はなかった。
肩甲骨のあたりに、根元から取られた傷跡が二つあった。
女は、濡れた跡の縁で足を止めた。
灯りを掲げて、こちらを見た。
淡い金色の、白目のない目で。
『…お久しぶりです、マーロウ・ケイン』
声は、灯台跡で聞いたときと同じだった。低くて、ゆっくりで、少しも崩れていなかった。
『三日前に、あれとすれ違いました。それで、あれがどこから来たのかを見に来ました。私は、知らないことがあると眠れない性質ですので』
第二章 了