第三十三章
空欄

夜のうちに、北へ走った。
ケイルは約束を守った。夜が明けるまで、翼は一度も追ってこなかった。
夜明けに一度だけ、南の空に翼が見えた。高くは飛んでいなかった。右が遅れる羽ばたき方で、丘の上に止まって、こちらを見ていた。
追ってはこなかった。
『…約束の範囲を広げたな』とドラグが言った。
「夜のうちは追わない、じゃなかったのか」
『あの男は、昔から、言った以上のことはやらん。言った以下のことも、やらん』
ドラグは、南の空を見なかった。
見なかったのは、見たら止まってしまうからだと、マーロウには分かった。
光る草の海を抜けて、黒い土が赤い土に戻ったところで、荷車を止めた。
火を焚いた。
草が光らない場所で火を焚くのは、三日ぶりだった。誰もそれを口にしなかったが、全員が、火の明るさに少しほっとした顔をしていた。
ロズリンが、紙束を膝に広げていた。
いちばん新しい頁を開いていた。番号がびっしり並んでいる。畑の杭から写した番号だ。何百とある。二万には、はるかに届かない。
そのいちばん上に、一行だけ、番号の横に名前が書いてあった。
ガリー・ノーツ。
マーロウは、上着の内側から、古い紙を出した。
端が黒くなっている。七桁の数字が十三個。坑の底で、一から預かったものだ。
「頼みがある」
ロズリンが顔を上げた。
「これを、あんたの帳面に写してくれ。十三人分だ。坑の底で死んだ連中の番号だ」
ロズリンは、紙を受け取った。受け取って、しばらく数字を見ていた。
『名前の欄は、どうしますか』
「マーロウ・ケイン。十三回だ」
『同じ名前を、十三回』
「同じ名前でも、十三人いた。書かないと、一人しかいなかったことになる」
ロズリンは、眼鏡を押し上げた。
それから、筆を取って、一行ずつ書きはじめた。番号。名前。番号。名前。
十三回、同じ名前を書いた。一回も、書く速さを変えなかった。
書き終えて、ロズリンが訊いた。
『もう一人、いますね』
「…ああ」
『何と書きますか』
「一」
ロズリンは、筆を止めなかった。
番号の横に、一、と書いた。一文字だけの名前を。
それから、その横に、もう一つ書き足した。
生存。
ドラグが、火の反対側から、立ち上がった。
ロズリンの横まで来て、座った。座ってから、しばらく何も言わなかった。
「…隊長?」
『一行、頼めるか』
「どなたの、ですか」
『兄のだ』
ロズリンは、帳面の後ろの頁をめくった。そこに、空いた行が一つあった。
街を出る前から、空いていた行だった。黒の書の十人目の隣に並べて、ロズリンが自分で作っておいた欄だった。
「何と書きますか」
『ケイル・モーテンセン。生存』
ドラグは、少し間を置いた。
『翼あり。借り物』
ロズリンは、書いた。
書き終えて、筆を置いて、小さく言った。
「…空欄が、一つ減りました」
『そうか』
「減るのは、いいことです。私にとっては」
ドラグは、何も答えなかった。
答えなかったが、立ち上がらなかった。火が小さくなるまで、ロズリンの横に座っていた。
ロズリンも、それを書かなかった。
ウィラは、荷台の上で膝を抱えていた。
マーロウは、隣に上がって座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
『ねぇ』
「なんだ」
『一さん、ほんとに平気かな』
「平気じゃないだろうな」
『…嘘でもいいから平気って言ってよ』
「言わない。おまえ、嘘つかれるの嫌いだろ」
ウィラは、少しだけ笑った。欠けた前歯から息が漏れる、いつもの笑い方だった。
『…うん。嫌い』
火の音がした。
遠くで、ミラベルが一人で北を見て座っていた。いつもなら誰かに話しかけているのに、今夜は黙っていた。
『ねぇ、マーロウ』
「なんだ」
『街に帰ったらさ』
「うん」
『また、一緒に暮らせる? 納屋で。北の壁が崩れてるとこで。水道橋の上で夕焼け見たりしてさ』
マーロウは、すぐには答えなかった。
頭の中に、白い部屋があった。錆びない金属の壁。抑揚のない声。三十年。この建物から出られない。
ウィラは十五だ。三十年たてば、四十五になる。
その計算を、もう一度した。
「…ああ」
言った。
『ほんと?』
「ほんとだ」
ウィラは、マーロウの肩に頭を預けた。
『よかったぁ』
マーロウは、この子が見抜けない嘘をついたのは、三年で初めてだと思った。
嘘をつかれるのが嫌いな子に。
ウィラは、すぐに寝息を立てはじめた。マーロウは、動かなかった。朝まで、動かなかった。
朝になって、サイラスが、荷車の陰で何かを見ていた。
手のひらほどの、薄い硝子の板だった。板の中に、白い字が浮かんでいた。
マーロウは、それを見たことがなかった。
「何だ、それ」
サイラスは、答えなかった。
答えずに、板を見ていた。眼鏡の奥の目が、笑っていなかった。この男の目が笑っていないのを見るのは、初めてだった。
「おい」
『…本部からの報せでございます。本部は、こういう板で、手の者に字を送ります』
「何て書いてある」
サイラスは、板をマーロウに向けた。
白い字が、並んでいた。
帝国暦三四八年。掘削地、坑口崩落。
坑より上昇した個体、一。
北西へ移動中。進路上に東の哨所。
推定到達、海壁の街。二十日後。
マーロウは、三回読んだ。
四回目は、読めなかった。字が目に入ってこなかった。
東の哨所。ブリンがいる。ボロがいる。西へ歩いたハーランと十九人の坑夫が、今ごろ着いているはずの場所。
海壁の街。ヴェスタの店がある。棚に麻の反物が並んでいて、その一本に筒が縫い込んである。ニムの店がある。三割引の肉を三回自慢したゴブリンがいる。ガスがいる。サムの妹が、兄の飯をこさえて待っている。
二十日。
ここから街まで、荷車を急がせても半月はかかる。
「…個体、って何だ」
サイラスは、答えなかった。
知らないのだと、顔で分かった。
マーロウは、ミラベルのところへ歩いた。
ミラベルは、まだ北を見て座っていた。一晩じゅう、そうしていたらしかった。
「おい」
『…うん。聞こえてた』
「何が上がってきた」
ミラベルは、答えなかった。
いつもみたいに笑わなかった。いつもみたいに、坊や、とも言わなかった。
左腕を持ち上げて、金属の指を、一本ずつ開いて、閉じた。
『…あたしさ、本部に最初に作られたって言ったよね。水を守る刃だって』
「言った」
『二百十年、ずっと思ってたんだよね。何から守るんだろうって。水は、誰が見たって減る一方なのにさ』
ミラベルは、立ち上がった。
北西を向いた。
『今、分かった』
それだけ言って、ミラベルは荷車のほうへ歩いた。
歩きながら、振り返らずに、いつもの声で言った。
『行こっか、坊や。二十日しかないんでしょ』
声が、いつもより、ずっと明るかった。
荷車を、北西へ向けた。
ウィラが、荷台の上で目を覚まして、マーロウの袖をつかんだ。
『…帰るの?』
「帰る」
『街に?』
「街にだ」
ウィラは、それ以上訊かなかった。
訊かないで、マーロウの袖をつかんだまま、前を向いた。
赤い土が、地平線まで続いていた。その向こうに、哨所があって、二十三日の荒れ地があって、崩れた水道橋があって、その上に、夕方になると赤くなる場所がある。
そこへ、何かが先に向かっている。
マーロウは、帯の左側を押さえた。革の小袋が、七十六粒ぶん重かった。右側には、ガラスの筒が一本。
荷台には、海の水が、百二十本から使った分を引いた数だけ積んである。
本部との約束の日数は、まだ残っている。
ウィラとの約束は、嘘だった。
どちらを守るのか、まだ決めていなかった。
決めないまま、荷車は動きだした。
第三十三章 了
第一巻 了