海壁

第二十六章

南の空

挿絵:南の空

二日目の夜、水位は七メートルになっていた。

ミラベルは塔の根元から一度も動かなかった。昼は寝て、夜は起きていた。坑夫が飯を運ぶと、礼を言って食べた。二杯目を頼んだ。三杯目も頼んだ。

『ここの豆、うまいねぇ。本部の飯は味がしないんだよ。栄養だけあって、味がない』

「本部に住んでるのか」とマーロウは訊いた。

『住んでるっていうか、置いてある? あたし、あいつの持ち物だからさ』

「持ち物」

『そう。坊やと同じ。坊やは血の入れ物で、あたしは刃の入れ物』

ミラベルは左腕を持ち上げて、月にかざした。金属の指が、一本ずつ開いて、閉じた。

『あいつが最初に作ろうとしたのは、あたしのほうなんだよ。水を守る刃。坊やたちはその後。刃じゃ海は減らせないって、あいつが気づいてからの話』

「…何年前だ」

『二百十年』

ミラベルは、それを天気の話のように言った。

『あたし、二百十歳。見えないでしょ。あっはは。褒めてもいいよ』


音が来たのは、その少し後だった。

最初はウィラが気づいた。火のそばで膝を抱えていたのが、急に顔を上げた。

『…ねぇ。なんか鳴ってない?』

「何も聞こえないぞ」

『鳴ってるって。南。南のほう』

マーロウは南を見た。

何もなかった。星があって、地平線があって、その上は黒い。

黒すぎた。

星が、南の空の一角だけ、欠けていた。

ミラベルが、立ち上がった。

二日座り続けた女が、音もなく立った。

『あー。来ちゃったか』

「何がだ」

『共和国』


星を隠していたのは、船だった。

二か月前、市場の上で墜ちた帝国の輸送船は、全長六十メートルだった。

これは、その五倍はあった。

三百メートル。黒い腹を下に向けて、ゆっくり、音をほとんど立てずに、南から滑ってくる。翼はない。グリフォンも引いていない。何に吊られているのでもなく、ただ浮いていた。

腹の下から、光が漏れていた。白い光だった。本部の廊下と同じ色の光だった。

『粒で浮いてるんだよ、あれ』とミラベルが言った。『何万粒積んでるんだか』

「何万」

『牛にして何万頭。いや、あれは牛じゃないな』

ミラベルは、船の腹を見上げて、目を細めた。茶色いほうの目だけを細めた。

『共和国は牛を飼ってないんだよ。人を飼ってる』

船の周りに、点が散らばっていた。

点は動いていた。羽ばたいていた。

グリフォンだった。数えようとして、マーロウはやめた。四十を超えたあたりで、数えるのが意味をなくした。

一頭ごとに、背中に人が乗っていた。


掘削地が、一斉に動いた。

十九人の坑夫が小屋へ走った。ハーランが怒鳴った。この男が怒鳴るのを、マーロウは初めて聞いた。

『明かりを消せ! 全部だ! 火もだ!』

ドラグは荷車の陰に入って、残った得物を確かめていた。棒の先の鉄は、昨日ミラベルに二つにされた。今あるのは、坑夫から借りた鶴嘴が一本だ。

ロズリンは机の上の紙束を、布に包んで胸に抱えた。それから、それを持ったまま机の下に潜った。

一は、塔の足元で立ったまま、空を見上げていた。

「おい、隠れろ」

『あれは何だ。あれは何だ、おい』

「船だ。でかい船だ。いいから隠れろ」

『九年ぶりに外に出て、三日目にこれか』

一は、笑いそうな顔をした。笑い方を忘れているので、うまく笑えなかった。

ウィラが、マーロウの袖を両手でつかんでいた。

『マーロウ、どうすんの、どうすんの、あれ』

「分からん」

『分かんないの!?』

「分かるかよ、あんなもん。今日初めて見た」

正直に言った。ウィラは、正直に言われたことで少し落ち着いた顔をした。嘘をつかれるほうが、この子は怖いのだ。


船は、掘削地の真上で止まった。

高さは二百メートルほど。真下から見上げると、夜空の半分が船の腹だった。

腹の真ん中が、開いた。

光が落ちてきた。白い光の柱が、塔の少し南の地面を照らした。

その光の中を、人が降りてきた。

一人ずつ。紐も梯子もなく、ただ光の中をゆっくり落ちてきて、地面に着いた。

十二人。

マーロウは、最初、それが人だと思えなかった。

形は人だった。頭があって、腕があって、脚があった。

ただ、どれも、どこかが人ではなかった。

一人は、右腕が肩から先、グリフォンの前脚になっていた。鉤爪が四本、地面に届きそうなほど長い。

一人は、喉が大きく膨らんでいて、首の横に鰓のような裂け目が並んでいた。

一人は、背中から、同じ背丈の人間がもう一人生えていた。

違う。生えているのではなかった。背骨で二人がつながっていて、二つの頭が前と後ろを向いている。腕が四本あった。顔は、二つとも同じだった。

ミラベルが、塔の根元から一歩前へ出た。

『へえ、双子まで持ってきたんだ。本気だねぇ』

声が、二日前と同じ調子だった。豆を食べていたときと同じ調子だった。


最後に、十三人目が降りてきた。

光の柱の真ん中を、ほかの十二人よりゆっくり降りてきた。

背中に、翼があった。

大きな翼だった。広げると、左右で八メートルはある。羽根の色は灰白色で、月の光の下では骨の色に見えた。

マーロウは、その色を知っていた。

灯台跡で見た。獅子の体の、毛の色だ。肩甲骨のあたりに、根元から取られた傷跡が二つあった。

男は地面に降りて、翼をたたんだ。

オークだった。

ドラグより少し背が低い。肌は灰色がかった緑。下の牙が二本、唇の外に出ている。髪は頭に張りつくほど短い。目は黒くて小さくて、瞬きが少ない。

荷車の陰で、鶴嘴が地面に落ちる音がした。

ドラグが立ち上がっていた。

「…ケイル」

翼の男は、その声のほうを向いた。

向いて、しばらく見ていた。

『久しぶりだな、ドラグ』

声が、ドラグとまったく同じ高さだった。

第二十六章 了