第十章
哨所

予定は片道十九日だった。実際は二十三日かかった。
牛が十頭に減ったせいだ。荷車一台に二頭ずつ、替えのない数で引かせた。一頭が足を引きずれば、その荷車ごと休ませるしかない。休むたびに全体が止まる。それを二十三日続けた。
街を出てから二十三日目。壁を越えて戻った日から数えて、通算二十九日目の夕方に、哨所が見えた。
思っていたものと違った。
マーロウが想像していたのは、石の砦だった。実際にあったのは、石を積んだだけの低い囲いと、その中に建つ木と布の小屋が十四棟。囲いの高さは腰まで。防げるのは風と水吸いくらいだ。
人は四十人ほどいた。軍服を着ているのは半分で、残りは作業着だった。
いちばん目立ったのは、囲いの外に立っている鉄の塔だった。
高さは三十メートルほど。三角形に組んだ鉄の骨組みで、天辺に滑車がついている。その下に、鉄の管が山のように積んである。
『…あれ何?』
「知らん」
『マーロウ、最近それしか言わないね』
「本当に知らんからだ」
荷を下ろしていると、囲いのほうから犬が走ってきた。
茶色くて、脚が短くて、片耳が垂れている。荷車の車輪に一度ぶつかって、転んで、起き上がって、ウィラに飛びついた。
『わっ、ちょっと、やだ、くさい! くさいってばぁ!』
ウィラが押しのけるふりをしながら、両手で顎を掻いてやっていた。
二十三日ぶりに、ウィラが声を出して笑った。
『こいつはボロだ。役に立たん犬だが、飯だけはきっちり食う』
声のほうを見ると、女が立っていた。
オークだった。ドラグより頭一つ低いが、横幅はある。下の牙が二本、唇の外に出ているのはドラグと同じだが、こちらは片方が折れて短い。日に焼けて、肌の緑が茶色に近い。白髪の混じった髪を太く編んで、背中に垂らしている。
笑うと、右の奥歯が三本ない。そして、よく笑った。
『ブリン・ハスケルだ! ここの物資係。二十三日ぇ? おいおい、遅いぞ。四日も遅い』
「牛を二頭やられた」とドラグが言った。
『あー、水吸いだな。今年は多いんだ、あれが。多い年と少ない年があってな』
「人も一人やられた。テオ・ラント」
ブリンの声が、そこで止まった。
止まり方が、栓を抜いたような止まり方だった。
『…テオか』
「知ってるのか」
『先月ここで鍋を焦がしたばっかりだ。わしが怒鳴ったんだぞ。鍋一つでな』
ブリンは帳面を出して、一行書いた。書き方がロズリンと違って乱暴だったが、時間は同じくらいかけた。
『よし、飯だ。全員だ! 風呂もあるぞ、風呂! 二十三日ぶんの臭いで塔が倒れるわ!』
大きい声だった。さっき止まった声のぶんまで、まとめて出しているような声だった。
マーロウは、この女を好きになるのに三十秒もかからなかった。この二十三日で、そういう人間に一人も会っていなかった。
飯は豆と芋と、塩漬けの肉だった。街で食っていたものと変わらない。ただ、量があった。
ウィラは三杯食べて、四杯目で手が止まった。
「…もう食べきれない」
『残せ残せ、遠慮するな。ボロが食う。ボロは何でも食うぞ。去年は靴を食った』
「えっ、靴!?」
『わしの靴だ。片方だけな。なんで片方だけなんだと思う?』
「…分かんない」
『わしにも分からん!』
ブリンは自分で言って自分で笑った。奥歯が三本ないのがよく見えた。
ボロは食った。ものすごい速さで食って、それからウィラの足の上で寝た。
ウィラは動けなくなった。動けなくなったまま、一時間そこにいた。
マーロウは外に出て、鉄の塔を見に行った。
近くで見ると、想像よりずっと大きかった。塔の真下に穴がある。直径は人が両腕を広げたくらい。縁は鉄で補強してあって、そこから鉄の管が地面の中へ伸びている。
ブリンが後ろから来た。手に湯気の立つ椀を二つ持っていた。片方をマーロウに渡した。
『穴だ。これは古い試し掘りでな、浅い。本物は、東へ歩いて二日の掘削地にある。そっちは深いぞ』
「何のための穴だ」
『水を汲むための穴だ』
「井戸か」
『井戸だなあ。世界一でかい井戸だ』
ブリンは椀をすすって、げっぷをした。隠しもしなかった。
『六十年掘っとる。わしが来たときには、もう二十年掘っとった』
「六十年で、どこまで掘った」
『三千八百メートル』
マーロウは椀を持つ手を止めた。
「あと何メートル掘る」
『三百二十メートルだ。合わせて四千百二十。そこで水が出ると計算されとる。計算した奴はとっくに死んどるがな』
その数字を、マーロウは二十五日前に聞いていた。
灯台跡で、シビルが言った数字だ。ガラスの筒の金具に刻んであった深さ。
「四千百二十メートルの下に、何がある」
『海だ』
ブリンは、それを天気の話のように言った。
『地面の下に海がある。あんたが今日通ってきた乾いた窪地な、あれの水が全部下に落ちたわけじゃない。もともと下にもあったんだ。上の海が無くなって、下のだけ残った』
「街の連中は誰も知らないぞ」
『知らせてないからな。知らせたらどうなると思う』
「水を取り合う」
『そうだ。四千メートルの穴を掘れるのは帝国だけだ。だから帝国は、掘り終わるまで黙っとる。掘り終わったら発表する。発表した日から、あそこが世界で一番大事な場所になる』
ブリンは椀の残りを飲み干して、袖で口を拭いた。
『あと十五年だ。三百二十メートルに十五年。わしは生きとらんよ、そこまでは』
そう言って、また笑った。この女は、笑わないと喋れないらしかった。
マーロウは、二十三日かけて運んできた荷のことを思い出した。
樽と木箱と、油紙で包んだ長いもの。長いものは、一台に十二本ずつ縛りつけてあった。中身を見たことはなかった。
「おれたちが運んできたのは」
『管だ。掘る先につける管だな。一本で六メートル掘れる』
「一台に十二本。五台で六十本」
『六十本で三百六十メートル。ただし途中で折れる。深くなるほど折れる。実際に進むのは、月に数メートルがいいほうだ』
「毎月これを運んでるのか」
『毎月だ。六十年な』
マーロウは、自分が二十三日かけて押してきた荷車の重さを思い出した。
それが六十年分ある。
翌朝、ドラグがブリンの小屋に入った。マーロウとロズリンも呼ばれた。
ブリンは棚から帳面を三冊出して、机に積んだ。
『先月の隊のことだろう。先に答えを言う。着いとらん』
「一人もか」とドラグが言った。
『一人もだ。荷も来とらん。だから今月、管が足りん』
ブリンは帳面を開いて、指で押さえた。空欄が一行あった。
『捜索は出した。二日東まで見に行かせた。何もない』
「足跡は」
『あった。東へ向かっとった。追わせはせん』
「なぜだ」
ブリンは、そこで初めて笑わなかった。
『追った連中が戻らんからだ。四年で九人出した。九人とも戻っとらん。だからもう出さん』
ロズリンが板に何か書いた。書いてから、顔を上げた。
「ハスケルさん。この哨所より東には、何がありますか」
『掘削地だ。歩いて二日。人が二十人おる』
「その先は」
『孤独の大地だ。行った者から話を聞いたことがない』
「行った者がいないのですか」
『行った者はおる。話を聞いたことがない、と言った』
ロズリンは、それから哨所の記録を見せてくれと頼んだ。
ブリンは棚から、いちばん厚い一冊を出した。出入りの帳面だ。誰がいつ来て、いつ出ていったかを書く。
『三年前の秋を見たい、と言いましたね』
「言ってない」
『では、私が見たいので見ます』
ロズリンは紙をめくった。めくりながら、指を上から下へ走らせる。
三度目のめくりで、指が止まった。
止まったまま、動かなかった。
「何が書いてある」
『…先に確認させてください。あなたは、三年前の秋に何をしていましたか』
「街にいた。市場でウィラを拾った。秋だ。忘れるわけがない」
『一日も欠けずに覚えていますか』
「そこまでは覚えてない。誰が覚えてる」
ロズリンは帳面をマーロウのほうへ回した。
ブリンが横から覗いて、それから、ゆっくり頭を上げた。
入りの欄に、こう書いてあった。
帝国暦三四五年、秋。マーロウ・ケイン。街より。掘削地へ同行。
三年前の秋だった。
字はブリンのものだった。乱暴で、時間をかけた字だ。
『…わしが書いとるな』
「覚えてるか」
『覚えとらん』
三冊目だった。縫い屋の帳面。壁番の黒の書。この哨所の出入り帳。三人の別々の人間が、三年前の秋に同じ名前を書いて、三人とも書いた覚えがない。
ロズリンは、帳面の同じ行の右端を指した。
出の欄があった。
『ここが空いています』
「どういう意味だ」
『入った記録はあります。出た記録がありません』
ロズリンは眼鏡を押し上げた。手が震えていた。
『三年前の秋、マーロウ・ケインはここへ来て、東の掘削地へ行きました。そして、ここへ戻っていません』
小屋の外で、ボロが吠えた。ウィラの笑い声が聞こえた。
マーロウは、自分の左の肘の内側を押さえた。
皮膚の下に、七桁の数字がある。生まれたときからある。
「ロズリン」
『はい』
「そこに番号は書いてあるか。名前の横に」
ロズリンは帳面に顔を近づけた。
『書いてあります』
「読め」
ロズリンが読み上げた。
七桁。上の四桁は、マーロウの腕と同じだった。
下の三桁だけが、違っていた。
第十章 了