第十二章
鎖

紙を見せられてから、マーロウは三十分ほど何も言わなかった。
言うことがなかったのではない。多すぎて、どれから言えばいいのか分からなかった。
先に口を開いたのはウィラだった。
『行かないよね』
「まだ何も言ってない」
『行かないって言って』
「ウィラ」
『言ってよ! 十四人下りて一人も上がってきてないんだよ!? 十四人だよ!』
ハーランが、紙を折りたたみながら言った。
『来月着任と書いてある。今月ではない。急ぐ話ではない』
「じゃあ来月、おれと同じ顔の男がここに来るのか」
『そうなる』
「来なかったら」
『帝国に報告する。返事は、次の名簿が来る。それだけだ』
その日の午後、帝国の技師が塔から下りてきた。
若い。三十そこそこだ。人間で、この土地に二日といないような顔をしている。黒い髪を油で撫でつけていて、丸い小さな眼鏡をかけている。服が清潔だった。掘削地で清潔な服を着ている人間は、この男しかいない。
歩き方が、他の十九人と違った。急いでいない。
『サイラス・メレディスと申します。本部から参りました。記録係でございます。長旅、お疲れさまでございました』
頭の下げ方が、角度まで決まっていた。
ロズリンが板を持ったまま、小さく息を吸った。
「記録係は私です」とロズリンが言った。
『では二人ですね。結構なことです』
サイラスは笑った。目が笑っていないという言い方があるが、この男の場合は逆だった。目だけが笑っていて、口が動いていない。
マーロウは、この男が嫌いだった。会って十秒で決めた。
『マーロウ・ケイン様ですね。ずいぶんお早いご到着で。恐れ入ります』
様、と言われた。
マーロウの背中が、勝手に強張った。
「様はやめろ」
『失礼いたしました。ケインさん』
「来月着任だと聞いたぞ、おれは」
『はい。ですが前倒しは歓迎でございます。管が二本、先週から詰まっておりまして。ちょうど困っていたところです』
「荷役で来たんだよ、おれは。潜りに来たんじゃない」
『存じております。強制などとんでもない。帝国は志願制でございます』
「十四人全員が志願したってのか」
『十四人全員が籠にお乗りになりました。書類にはそう残っております』
サイラスは、そこで初めて口の端を上げた。
目は最初から笑っていた。
ロズリンが動いたのは、その夜だった。
ハーランの小屋で、帳面をもう一冊出させた。掘削の作業帳だ。何日に何メートル掘ったか、管を何本使ったか、籠を何回上げ下ろししたかが書いてある。
「ベッセルさん。籠の重さは量りますか」
『量る。鎖が保つかどうかの問題だ。毎回だ』
「下ろすときと、上げるときの両方ですか」
『両方だ』
「では、その数字を見せてください」
ハーランは帳面をめくって、ある頁を開いた。
ロズリンは指で数字を追った。追いながら、口の中で数を言っていた。
二分ほどして、顔を上げた。
『おかしいです』
「何がだ」
『まず回数です。籠の上げ下ろしは、九年で三十四回。三か月に一度の割です』
「潜りは十四人だろ」
『はい。三十四回のうち十四回は、下ろすときに人が乗っています。籠が四十キロ、人が六十から八十キロ。合計で百から百二十キロ』
「残りの二十回は」
『籠だけです。四十キロで下りています。水を汲み上げるためだけの往復です』
「上げるときは」
『三十四回とも四十三キロです』
マーロウは数字を頭の中で引いた。
「籠が四十キロだろ。三キロ多いな」
『はい。ぴったり三キロです。誤差ではありません』
「待てよ。人を下ろしてない二十回も、上げは四十三キロなんだな」
『そうです』
「じゃあ誰が水を入れたんだ。下に誰もいないはずの回に」
ロズリンは答えなかった。答えは、訊いた本人が言い終わっていた。
ハーランが帳面を自分のほうへ引き寄せて、指で数字をなぞった。
『…見ていなかった』
「見ていた人はいます。書いた人です」
ロズリンは頁の端を指した。そこに書き手の判子が押してある。
三十四回のうち、直近の六回に、同じ判子が押してあった。
サイラス・メレディス。
マーロウは外に出た。塔の下まで歩いて、穴を覗き込んだ。
暗い。三千八百メートル下は見えない。当たり前だ。
三キロ。
ガラスの筒の重さを、マーロウは知っている。あの晩、水道管の中で持ち上げた。片手で持てた。中身を入れて、二キロか三キロといったところだ。
あの筒は、この穴から上がってきたものだった。
下りた人間が、水を汲んで、籠に乗せて、上げる。籠は水だけを乗せて上がってくる。人は乗っていない。
三十四回とも、そうだった。
後ろで足音がした。ウィラだった。
『考えてるでしょ』
「考えてる」
『やめてよ』
「聞け」
マーロウは穴から顔を上げた。
「街に帰るとする。帰ってどうなる。おれは来月、潜りとして名簿に載ってる。帝国はおれを探す。逃げても、おれと同じ顔のやつがまた一人作られて、ここに来て、この穴に下りる」
『…作られるって、何』
「分からん。ただ、三人いた。同じ顔で、同じ名前で、番号の下三桁だけ違うのが三人だ。来月また一人来ることになってる。そいつの番号は、七桁全部、おれの腕と同じだ」
『それ、だからってマーロウが下りる理由にならないじゃん!』
「ならないな」
『じゃあ言わないでよそんなの!』
ウィラは穴の縁を蹴った。小石が落ちて、音が返ってこなかった。
「もう一つある。こっちが本当の理由だ」
『…なに』
「十四人は死んだって、ここの全員が思ってる。でも誰も死体を見てない。籠が空で戻るのを見た人間も、実はいない」
ウィラが顔を上げた。
「三キロぶんの水を、誰かが毎回汲んで、籠に乗せてる。三月か四月に一回だ。九年ぶんだ」
『…生きてるってこと?』
「生きてなきゃ水は汲めない」
第十二章 了