第十一章
潜り

哨所を出たのは、着いた三日後の朝だった。
行くのは四人。マーロウ、ウィラ、ドラグ、ロズリン。護衛は連れていかない。ドラグが哨所に残すと決めた。荷車と牛を守る人間が要るからだ。
ブリンは囲いの外まで見送りに出てきた。
『二日で着く。水は一人五リットル持て。道は一本だ。迷いようがない』
「迷った人間はいるのか」
『おらん。戻らんやつはおる』
ブリンは笑った。笑ってから、笑うところではなかったという顔をした。
『すまん。ここじゃ笑うしかないことが多くてな』
ボロが囲いの隙間から出てきて、ウィラの足にまとわりついた。
「こいつ、ついてくる気だよ」
『ついてくぞ。途中で飽きて帰る』
「帰れるの?」
『犬だからな。道は覚えとる』
ボロは一日半ついてきて、二日目の昼に立ち止まって、西へ帰っていった。ウィラは三十分ほど無言だった。
歩いて半日で、地面が変わった。
赤い土が、灰色になった。細い脚の岩も無くなった。代わりに、地面のあちこちに穴が開いていて、そこから湯気が出ている。
マーロウは穴の一つに手をかざした。
「温かい」
『あなたは温度を感じないはずです』とロズリンが言った。
「熱いのは分かる。冷たいのが分からんだけだ」
『それは大きい違いです。書きます』
ロズリンは歩きながら書いた。
ドラグが穴の縁の土を指ですくって、匂いを嗅いだ。
『塩だ』
「湯気が塩辛いのか」
『土が塩を吹いとる。下から上がってきとるんだろう』
四千百二十メートルの下に海がある、とブリンは言った。
その海の匂いが、地面の穴から漏れている。
その晩、火を焚いてから、ロズリンが板を出した。
『一つ、整理させてください。私の頭の中だけだと間違えます』
「言え」
『分かっている番号を並べます。七桁のうち、上の四桁は全部同じです。下の三桁だけが違います』
ロズリンは火の明かりで板を読み上げた。
『一つ目。あなたの左肘の内側にある番号。生まれたときからある』
『二つ目。墜ちた船の中で、灰色のコートを着て死んでいた男の名札』
『三つ目。街側に落ちた船の後ろ半分から出た死体の名札。モーテンセン隊長が持っています』
『四つ目。哨所の出入り帳に書いてあった番号。三年前の秋に来て、掘削地へ行って、出た記録がない人物』
「四人いるってことか」
『いえ。三人です』
ロズリンは板の上で、二つの数字を並べて示した。
『三つ目と四つ目が、同じ番号でした。哨所で確かめました』
マーロウは、その意味を頭の中で組み立てた。
「待て。じゃあ、三年前に東へ行った男は」
『はい。街側の船から出てきた男です』
「死んでたな。あの日」
『死んでいました。つまり、こういうことになります』
ロズリンは指を折った。
『三年前の秋、あなたと同じ顔と同じ名前の男が、街から東へ来ました。哨所を通って掘削地へ入りました。出た記録はありません』
『そして三年後、その男は、東から街へ向かう帝国の輸送船に乗っていました』
『船は街の上で墜ちました。男は死にました。街側に落ちたほうです。隊長が名札を拾った男です』
ドラグが火の向こうで頭を上げた。
「戻ってきとったのか。三年かけて」
『戻る途中でした。着く前に墜ちました』
ウィラが、膝を抱えたまま小さく言った。
『…その人、何を持って帰ろうとしてたのかな』
誰も答えなかった。
答えは、たぶん鉄の箱の中に入っていた。中身はガラスの筒と、四千百二十メートルの深さから汲んだ水だ。それは今も、街の縫い屋の棚の奥で、麻の反物に巻かれているはずだ。
二日目の夕方、音が聞こえはじめた。
低い音だ。地面から来る。一定の間隔で、どん、どん、と叩いている。
近づくにつれて、音の間に別の音が混じった。鉄が擦れる音と、人の声だ。
丘を一つ越えると、掘削地が見えた。
哨所の塔より大きかった。高さは六十メートル近い。鉄の骨組みが四本脚で立っていて、その真ん中から鉄の管が地面へ入っている。
塔の周りに小屋が八棟。人が動いている。数えると十九人いた。
地面のあちこちから湯気が上がっていて、風向きによって、その湯気が塔を隠した。
『でっかい…』
「六十年ぶんだ」
『六十年で、まだ終わってないんだよね』
「あと十五年だとよ」
出迎えたのは、痩せた男だった。
五十代半ば。人間だ。背は高いが、肉がない。顔の左半分が火傷の跡で、つるりとしている。そちら側には眉毛がない。目は薄い灰色で、光の加減で白く見える。
声は低くて、ゆっくりで、一文ごとに最後まで言い切る。途中で言葉を濁さない。
『ハーラン・ベッセル。ここの主任だ。哨所から誰か来るとは聞いていない』
「モーテンセンだ。壁の管轄だが、今回は私用だ」
『私用』
ハーランは、その二文字だけをゆっくり言い直した。
『私用で、二十五日、歩いたのか』
「歩いた」
『そうか。長かったな』
ハーランはうなずいた。驚きもしなければ、迷惑そうでもない。
マーロウは、この男が何を考えているのか読めなかった。怒っていないし、喜んでもいない。何年も前に、何かを気にするのをやめた人間の顔だった。
『飯はある。寝る場所もある。水は一人三リットルだ。ここは哨所より少ない』
「少ない理由は」
『掘るのに使うからだ』
翌朝、ロズリンが掘削地の記録を見せてくれと頼んだ。
ハーランは断らなかった。小屋の一つに案内して、棚から帳面を出した。哨所のものより厚い。
『何を探している』
「三年前の秋です」
『名前は』
「マーロウ・ケイン」
ハーランは、初めてマーロウの顔を見た。ゆっくり見た。それから、帳面をめくらずに言った。
『その名前なら覚えている。めくらなくても分かる』
「覚えてるのか」
『覚えている。ここで名前を覚えるのは、潜りだけだ』
「潜りって何だ」
ハーランは帳面を閉じて、机の上で両手を組んだ。
『順番に話す。長くはない。途中で口を挟まれると、最初からになる』
『この穴は今、三千八百メートルある。掘るのは機械だ。管を継ぎ足して、先端で岩を砕く。ここまでは分かるな』
「分かる」
『問題は、千五百メートルより下だ。管が曲がる。詰まる。折れる。そうなると機械では直せない。人が行って直すしかない』
「三千八百メートルの下にか」
『そうだ』
「人が行けるのか、そんなとこに」
『行ける。籠に入れて、鎖で下ろす。片道で十九時間かかる』
ハーランは、指で机を一度叩いた。
『それをやる人間を、潜りと呼ぶ。半年あまりに一人、帝国が送ってくる』
「送ってくるって、どういう意味だ」
『言葉のとおりだ。名簿が来て、その名前の人間が来る。こっちで選ぶんじゃない』
「志願なのか」
『聞いたことがない。ここへ来た潜りは、全員、何も言わずに籠に乗った』
ウィラが、マーロウの袖を握った。
「何人下りた」
『私が主任になってから、十四人だ』
「何人上がってきた」
ハーランは、そこで間を置いた。ごまかしているのではなく、数えているように見えた。
火傷のない側の頬が、一度だけ動いた。動いたのはそこだけだった。
『一人も、いない』
「一人もか」
『一人もだ。十四人下りて、十四人だ』
部屋の中が静かになった。外で、地面を叩く音が続いている。
『管は直る。毎回直る。下りた人間が直して、上がってこない。籠だけが空で戻ってくる』
「鎖を引き上げるのはこっちだろう。何が起きてるか見えないのか」
『見えない。十九時間ぶんの鎖の先だ。声も届かん』
「帝国に報告してるのか」
『毎回している。九年、毎回だ』
「返事は」
『返事も毎回同じだ。次の名簿が来る。それだけだ。悔やみの一行もない』
ドラグが口を開いた。声はいつもと同じだったが、少し遅かった。
「兄の名前を言う。ケイル・モーテンセン。三年前だ」
『潜りではない』
「違うのか」
『あの男は付き添いで来た。潜りを一人連れてきた。名簿を持ってな』
ハーランは帳面を開いた。今度は開いた。
『帝国暦三四五年、秋。付き添い、ケイル・モーテンセン。潜り、マーロウ・ケイン』
ドラグは動かなかった。
「兄はどうなった」
『帰っていった。西へだ。潜りを引き渡したら、付き添いの仕事は終わりだ』
「帰り着いていない」
『それは知らん。ここを出たことは覚えている』
ロズリンが板に書いた。書いてから、顔を上げずに言った。
「ベッセルさん。三年前に下りたマーロウ・ケインは、上がってきましたか」
『上がってこない。十四人のうちの一人だ』
「では、質問を変えます。三年前に下りたマーロウ・ケインは、先月、帝国の輸送船に乗っていました。東から西へ向かう船です」
ハーランは、しばらく黙っていた。
『それは間違いだ』
「名札の番号を照合しました」
『それでも間違いだ。籠は空で戻った。私が見た』
「では、どちらかが間違っています。私は自分のほうを疑います。もう一度伺います。籠が空で戻ったのを、あなたは自分の目で見ましたか」
ハーランは答えなかった。
答えなかったのではない。答えを探していた。
『…見ていない』
「では誰が」
『報告を受けた。毎回だ。私は塔の上にいない。書類に、空と書いてある』
「書いたのは誰ですか」
『帝国から来た技師だ。名前は毎回違う』
話が終わったのは、昼を過ぎてからだった。
外に出ると、日が高かった。塔の影が短い。
ハーランが後から出てきて、マーロウの横に立った。
それから、言い忘れていたという調子で言った。
『お前、来るのが早いな』
「何の話だ」
『次の名簿だ。先月届いている』
ハーランは上着の内側から、折った紙を出した。開いて、マーロウに見えるように持った。
紙には判子が三つ押してあって、一行だけ書いてあった。
潜り、マーロウ・ケイン。来月着任。
番号が横に添えてあった。
上の四桁は同じだった。
下の三桁も、マーロウの腕の数字と、同じだった。
七桁全部が、同じだった。
第十一章 了