海壁

第十九章

本部

挿絵:本部

連れていかれたのは、道から三つ目の建物だった。

入口に段差がない。扉が勝手に開いた。廊下の床が乾いていて、埃が一粒も落ちていない。

マーロウは十年、崩れた街で暮らしてきた。埃のない床を見たのは、生まれて初めてだった。

「あんた、名前は」

『アディ・ノールと申します』

「ノールか。名字があるんだな、ここの連中は」

『はい。全員にございます』

「誰がつけた」

アディは、少しだけ首を傾けた。考えている動きではなかった。答えを探している動きでもなかった。傾けただけだった。

『存じません。ついておりましたので』


風呂は、湯だった。

湯が、桶に三杯もあった。

マーロウは、その量を見て、しばらく動けなかった。街では、体を洗うのに濡らした布を使う。湯を使うのは、市場の隅の風呂屋で、銅貨が六枚かかる。

ここでは、誰も数えていなかった。

『お召し物はこちらに』

アディが台の上に服を置いた。

マーロウは袖を見て、丈を見て、肩幅を見た。

合っていた。

目分量で合っているのではない。ヴェスタが三度直してくれた上着より、よほど合っていた。

「いつ作った、これ」

『先月でございます。着任のご予定に合わせて』

「寸法は」

『台帳にございます』

マーロウは、その返事を三回頭の中で繰り返した。

会ったこともない人間の肩幅が、書いてある台帳がある。


脱いだ服は、アディが持っていった。

持っていかれる前に、マーロウは二つだけ抜いた。

一つは、帯の縫い目に押し込んだ革の小袋。粒が百。

もう一つは、布に巻いたガラスの筒。街へ持って帰る一本だ。

抜いて、湯桶の下に滑り込ませて、体を洗い終わってから、新しい服の帯に移した。

三十日壁を登った人間の手つきではなかった。十年、死体から服を剥いできた人間の手つきだった。

アディは見ていなかった。

いや、見ていた。見ていて、何もしなかった。

それがいちばん気味が悪かった。


廊下を歩いているあいだに、数を数えた。

すれ違ったのは十一人。そのうち三人が同じ顔だった。四十くらいの男で、三人とも右の耳が少し欠けている。

全員が頭を下げた。全員が同じ角度で下げた。

「一つ訊いていいか」

『どうぞ』

「ここの連中、笑わないのか」

『笑います』

「見てないぞ、一回も」

『おかしいことがあれば笑います。今日はまだございません』

マーロウは、その答えを聞いて、少し安心しかけた。

安心しかけた自分に気づいて、やめた。

オットも、たぶん同じことを言う。


突き当たりの部屋の前で、アディが止まった。

扉が開いた。

中に、先客がいた。

黒い髪を油で撫でつけて、丸い小さな眼鏡をかけている。服が清潔だった。この街では全員の服が清潔なので、それは特徴にならなかったが、それでも分かった。

『ケインさん。お久しぶりでございます』

サイラス・メレディスだった。

マーロウは、まず日数を数えた。

馬で六日。自分は三十日。この男は、二十日以上前からここにいる。

「…早いな」

『ええ。馬がよく走ってくれまして』

「おれが登ってくるって、報告したのか」

『いたしました。二十二日前に』

「信じてもらえたのか。三千八百メートルの壁を、人が登ってくるって話を」

サイラスは眼鏡を押し上げた。押し上げてから、口の端を上げた。

『信じるも何も、あの通路を作ったのは、こちらでございますので』


マーロウは、その一言で足を止めた。

三十日かけて登った。棒が一万二千本以上あった。九百メートルの横穴に骨が一つ転がっていた。一が七年かけて押す場所を見つけて、二年かけて順番を見つけた。

その扉の向こうの梯子を、こいつらは知っていた。

「知ってて、九年放っといたのか」

『放ってはおりません。使う予定がなかっただけでございます』

「下に人がいるのは」

『存じております』

「九年だぞ」

『はい。九年でございます』

マーロウは、この男を殴らなかった。殴っても意味がないからではない。殴ったら、この先を聞けなくなるからだ。

そう自分に言い聞かせるのに、十秒かかった。


部屋は広かった。

家具がない。椅子が二脚あるだけだ。

正面の壁が、下と同じ金属だった。継ぎ目が見える。細い線が規則正しく走っていて、途中で直角に曲がって、また並んでいる。

錆びていない。

『おかけください』とサイラスが言った。

「立ってる」

『そうですか。では立ったままで』

サイラスは自分だけ座った。

壁が、喋った。

『一〇六番』

女の声だった。抑揚がない。壁のあちこちから同時に聞こえる。

マーロウは、その声を知っていた。

六十五日前、墜ちた船の中で、自爆までの秒数を数えていた声だ。

「…おまえ、あの船にいたやつか」

『あの船に置いてありました』

「置いてあった」

『はい。船ごと失われました。あなたが生き残った側です』

マーロウは、部屋の中を見回した。

この壁の向こうに、どれだけのものが入っているのか、見当がつかなかった。


「一〇六番ってのは、おれのことか」

『はい』

「名前がある。マーロウ・ケインだ」

『存じております。名前は百六人で共有しています。番号は共有していません』

百六。

マーロウは、その数字を口の中で転がした。

三人だと思っていた。腕の数字と、名札が二枚。

ここへ来るまで、十四人と一人だと思っていた。

「百六人、作ったのか」

『はい』

「今、何人生きてる」

声は、答えるまでに少し間を置いた。

機械が間を置くのを、マーロウは二度目に聞いた。

『その質問にお答えする権限を、私は持っています』

「じゃあ答えろ」

『二人です』


部屋の中が静かになった。

サイラスは椅子に座って、膝の上で手を組んでいた。何も書いていなかった。この男が紙を持っていないのを、マーロウは初めて見た。

「二人」

『あなたと、坑底の一名です』

「残りの百四人は」

『使用済みです』

マーロウは、拳を握った。握ってから、開いた。

「言い方があるだろ」

『あります。どの言い方をご希望ですか』

「…そういうことじゃねえよ」

『失礼しました。記録上の表現を使いました。以後、死亡と申します』

声に悪気はなかった。悪気があるほうが、まだましだった。


マーロウは、三十日ぶんの質問のうち、いちばん大きいのを先に出した。

「一つ聞かせろ。おれたちを作らせてるのは帝国か」

『いいえ』

「じゃあ誰だ。この街の誰かか」

『いいえ』

「はっきり言え。誰が作った」

『私です』

マーロウは壁を見た。壁は壁のままだった。

「…帝国の許可は」

『必要ありません。帝国は、私の出した書類を処理する側です』

「逆だろ。おまえが帝国の機械なんだろ」

『逆ではありません。順番の話です』

サイラスが、そこで初めて口を挟んだ。

『ケインさん。哨所でも掘削地でも、書類は本部直送だと申し上げましたね』

「聞いた。何度もな」

『本部というのは』

サイラスは、座ったまま、正面の壁を手のひらで示した。

『ここのことでございます』

第十九章 了