第三章
縫い屋

ガスの血は、思ったより静かに出ていた。
勢いよく噴くのは太い血管が切れたときで、そういうのは見ればすぐ分かる。これは違う。指の付け根からじわじわ出て、止まらない。止まらないほうが厄介だと、前に誰かが言っていた。
「立てるか、おまえ」
『立てるに決まってんだろぉ。誰に向かって言ってんだよ』
「じゃあ立ってみろ。一回でいい」
ガスは壁に手をついた。ついた手が滑った。座り直した。もう一度ついて、また滑った。
『…無理だわ。悪ぃ』
ウィラがランプを持ち上げて、ガスの手を照らした。見た瞬間に顔をそむけて、そむけたまま早口で言った。
『縫い屋んとこ行こ。ねぇ、行こって。ヴェスタんとこ』
「行かない。あそこにはな」
『なんでぇ!』
「理由がある。行かない理由が」
『言ってよぉ。言わないと納得しないからね、あたし』
「借りてんだよ、金を」
『は? いま? 人が死にかけてんのに金の話してんの?』
「三回分な」
『三回も借りっぱなしなの!? そっちのほうがやばいじゃん!』
マーロウはガスの脇の下に肩を入れた。持ち上げると、思っていた三倍重かった。
夜市はまだ半分開いていた。
昼の騒ぎのせいで店の数は少ない。それでも油の匂いがして、焼いた粉の匂いがして、灯りの下に蛾が集まっていた。何十匹もいて、明かりの形が丸くぼやけている。ウィラが歩きながらそれをずっと見ていた。
『ねぇ、なんで蛾って火に行くんだろうね』
「知らん」
『熱いのにさぁ』
「知らんって言ってんだろ、さっきから」
『マーロウって知らないことばっかりだよね』
「拾い屋だからな。知ってたら別の商売してる、とっくに」
肩の上でガスが呻いた。
『おい。蛾の話してる場合かよ。おれ死ぬぞ』
「死なないよぉ。死ぬ人はそんな大きい声出ないもん」
『お嬢ちゃん、見た目より冷てえなぁ…』
ヴェスタ・ハルムは縫い屋だ。布も縫うし、人も縫う。どちらが本業なのか、本人は言わない。
六十近い。背はマーロウより高くて、肩幅も広い。灰色の髪を後ろで一つに縛っている。左目が白く濁っていて、見えていないほうの目で人を見る癖がある。慣れるまで落ち着かない。干した根をいつも噛んでいて、話の切れ目に床へ吐く。
マーロウはこの女に三回縫ってもらった。三回とも払いきっていない。だからこの半年、この通りを避けて遠回りしていた。
戸を蹴って入ると、ヴェスタは机の上の布から顔を上げた。上げただけで、驚かなかった。
『置け』
「金は」
『後』
「いくらだ」
『血を止めてからだ。順番も分からんのか、おまえは』
机の上の布を片腕で払い落として、そこにガスを寝かせた。ヴェスタは指の残った数を数えて、鼻から息を出した。
『二本な。切り口が綺麗だ』
「刃物か」
『違う』
「じゃあ何だ」
『知らん。綺麗だと言っただけだ』
それから針を三本並べて、少し迷って、いちばん太いのを取った。
『押さえてろ。暴れる』
「暴れねえよ。おれは餓鬼じゃねえんだ」
ガスは暴れた。
「いっ…いでででで! いでえ! いでえって!」
『動くな』
「動いてねえよぉ!」
『口は動いとる』
途中でウィラも押さえに加わった。それでも足りなくて、ヴェスタが膝でガスの胸を押さえた。
終わるまで一時間ほどかかった。
ウィラはその間に、どこからかパンを二個持ってきた。マーロウは出どころを聞かなかった。聞くと答えるので、聞かないほうがいい。
二人は店の外の段に座って食べた。パンは冷えていて、底のほうが焦げていた。
『ねぇ、この焦げたとこ、いる?』
「いる」
『えぇー。絶対いらないと思ったのにぃ』
「じゃあ聞くなよ、最初から」
『聞くでしょ普通。聞かないで食べたら怒るじゃん』
「怒らん」
『去年怒ったよ』
「…怒ったな。あれは怒った」
ウィラは結局、焦げた側を自分で食べた。
それからしばらく、どちらも喋らなかった。中からガスの呻き声と、ヴェスタが根を吐く音がした。
先に口を開いたのはマーロウだった。
「シビル・オーヴェイン」
ウィラはパンを噛むのをやめた。
『スフィンクスだよ』
「見たことあるのか」
『ないない。会ったことある人のほうが少ないでしょ、あんなの』
「じゃあ何で知ってる、名前を」
ウィラはパンの残りを両手で持ったまま、少しのあいだ黙った。それから、さっきまでの半分の声で言った。
『…うちの牛、買われたの』
「いつだ」
『四年前。全部で十一頭』
「粒にされたのか」
『たぶん。粒にするために買う人しか、あんな値段出さないって父さんが言ってたから』
パンの端を、指でちぎっては落としていた。食べてはいない。
『あたしね、全部に名前つけてたんだ。十一頭ぜんぶ。怒られたけどね。売り物に名前つけるなって、めちゃくちゃ怒られた。殴られはしなかったけど』
「やめたのか」
『やめない。隠れてつけた』
足元に落としたパンくずを、靴の先で砂に混ぜている。
『買いに来た人たちがね、帳面に書いてった。牛、十一頭。年、二から六。重さ。全部の欄があったよ。ちゃんと一頭ずつ』
ウィラは顔を上げた。
『名前の欄だけなかった』
「それで覚えたのか。シビルの名前を」
『帳面のいちばん上に書いてあったの。買い手の名前のとこ』
ウィラは少し笑った。前歯の欠けたところから息が漏れる、いつもの笑い方だった。
『あたしが字読めるようになったの、あの帳面のせいなんだよ。何が書いてあんのか知りたくてさ、一年かけて覚えた。一年だよ? ばかみたいでしょ』
マーロウは何か言おうとして、やめた。三年間で二度目だった。
戸が開いたのは、そのすぐ後だった。
男が二人、入ってきた。
片方は背が高くて猫背。片方は小柄で、頭に古い縫い跡がある。二人とも今朝ガスの後ろにいた男たちだった。路地でマーロウが膝を折った男と、銃を撃った男だ。
服が汚れていない。それが最初に目についた。夕方まで血と埃の中にいた人間の服ではない。
二人は店の真ん中で止まって、丁寧に頭を下げた。
『こんばんは』
机の上でガスが体を起こした。縫ったばかりの手を押さえたまま、二人を見た。
「…オット。サム」
二人はガスのほうを見なかった。見ていないのではない。視界には入っている。ただ、そこに誰かがいるという反応が起きていない。
「おい! こっち見ろやぁ! ガスだよ! 二十年だぞ、二十年! おんなじ釜の飯食っただろうがよぉ!」
返事はなかった。背の高いほうが、マーロウに向かって言った。
『夜分に失礼いたします』
「オットだったな。分かるか、おれが誰だか」
『はい。マーロウ・ケイン様です』
様、という言葉が、店の空気を変えた。
ヴェスタが針を置いた。置いただけで、動かなかった。ウィラが戸口とマーロウのあいだに入ろうとして、マーロウが腕で止めた。
「渡さない。箱はな」
『はい』
「はい、じゃない。渡さないって言ってんだよ、こっちは」
『承知しております。箱は本日の用件ではございません』
オットが一歩近づいた。マーロウは下がらなかった。下がると背中にウィラがいる。
『お手を拝借できますか』
「断る」
『お手を拝借できますか』
同じ言葉が、同じ速さで、同じ高さで出てきた。言い直しですらない。一度目とまったく同じものが、もう一度置かれただけだった。
ウィラが後ろで、小さく言った。
『やだ…これやだぁ…』
動いたのはサムのほうだった。
小柄なほうが、横から手首をつかんだ。力は強くない。ただ、手を離す気配もない。マーロウは肘で相手の顎を打った。骨が鳴った。サムの首が横を向いて、戻った。
戻って、また同じ力で手首を握っていた。
痛がらない。効いていないのではない。顎は明らかに折れていた。口の端から血が出ている。それでも顔の形が変わらない。
マーロウは二度目を打てなかった。打つ相手がいないような気がした。
オットが、マーロウの肩の包帯に親指を押しつけた。
血が親指についた。
それからオットは上着の内側から、指ほどの小さなガラス瓶を出して、栓を抜いた。中身を一滴だけ、自分の親指に落とした。
音はしなかった。光もしなかった。
親指の上から、血と水が消えた。
残ったのは、米の半分ほどの大きさの粒が一つ。透明でもないし黒くもない。見ているあいだ、色を決めかねているような色をしている。
オットはそれを目の高さまで持ち上げて、しばらく見ていた。
『確認いたしました』
「何をだ」
『あなたが、正しい方であることを』
サムの手が、マーロウの手首から離れた。
『三日後の夜、灯台跡へおいでください。お連れは一人までです』
「行かないと言ったら」
『三日後の夜、灯台跡へおいでください。お連れは一人までです』
二人は同じ深さで頭を下げて、出ていった。
ガスが机から降りようとして、床に落ちた。誰も間に合わなかった。落ちたまま、戸口に向かって怒鳴った。
『サム! 妹が飯作って待ってんだぞ! おい、サムぅ!』
足音は止まらなかった。
ヴェスタは針を持ったまま、戸口を見ていた。白いほうの目で見ていた。
『あの歩き方』
「知ってるのか」
『四十年前に一度見た』
「どこでだ。言え」
ヴェスタは根を床に吐いた。それから、床に転がったガスを見下ろして、長い息を吐いた。
『今夜は言わん。この馬鹿の手が先だ』
「明日なら話すのか」
『朝に来い。金を持ってな。手ぶらで来たら追い返す』
「話も聞かせずにか」
『わしは縫い屋だ。慈善屋じゃない』
外に出ると、夜市の灯りがまだ三つ四つ残っていた。蛾は減っていなかった。
ウィラが袖を引いた。
『連れは一人まで、って言ってたね』
「言ってた」
『あたし、行くからね』
「だめだ」
『じゃあ誰連れてくの。言ってみてよ』
マーロウは答えを持っていなかった。
第三章 了