海壁

第二十七章

神の血

挿絵:神の血

ドラグは、兄のほうへ歩いた。

誰も止めなかった。止められる距離に、誰もいなかった。

五歩手前で止まった。

「三年だ」

『三年だな』

「荷は着いた。おまえが着かなかった」

『着く気がなかったからな』

「名札を、乾いた海の底に置いてきた」

ケイルは、そこで初めて表情を変えた。ほんのわずかに、眉が下がった。

『…そうか。拾っとく』

「その翼は何だ」

『もらった』

「誰から」

『知りたがりの獅子からだ。南へ何かを調べに来て、捕まった。翼をもらって、帰してやった。共和国は殺さない。使えるものは使う』

マーロウは、灯台跡の声を思い出した。

私は知らないことがあると眠れない性質でして、この性質のせいで翼を失いました。


「何をしに来た」とドラグが言った。

『神の血を取りに来た』

ケイルは、マーロウのほうを見た。それから、塔の足元の一を見た。

『二人とも地上にいると聞いた。九年、坑の底に一人。もう一人は、どこにいるのかも分からなかった。どっちも手が届かなかった。それが今は、同じ場所で、同じ空の下に立ってる』

マーロウの背中が、冷えた。冷たさを感じない体なのに、冷えた気がした。

条件の一つ目。坑底の男を上げろ。

あれが、二人を並べた。

『本部は二百九十年、海を粒にしてきた。一人で抱えてな。共和国は、それを自分の手でやりたい。神の血が一人あれば、牛も人も要らなくなる』

「神の血、だと」とマーロウが言った。

『共和国ではそう呼ぶ。終わらない血。粒を無限に生む血。それを持ってる者は、神と同じだろう』

「神が壁の外で死体の服を剥ぐかよ」

ケイルは、マーロウの顔を見た。

それから、少し笑った。ドラグには一度もなかった笑い方だった。

『だから言いにくいんだ。おれもな』


ミラベルが、そこで割り込んだ。

『はいはい、兄弟げんかは後にしてくれるかい。あたし、仕事中なんだよね』

ケイルが、翼を半分開いた。

「…本部の刃か」

『そう呼ばれてる。可愛くないよね、その呼び方』

「ここの人間は、共和国が預かる」

『ここの人間は、本部が連れてく。先約だよ』

「先約は、数で決まる」

『へえ』

ミラベルは、にっと笑った。

『じゃあ、数えてみようか』


最初に動いたのは、喉の膨らんだ男だった。

口が開いた。

音は、聞こえなかった。

聞こえなかったのに、マーロウの耳から血が出た。地面の小石が、一斉に跳ねた。十九人の坑夫が隠れていた小屋の、南向きの壁が、内側へ吹き飛んだ。

ウィラが悲鳴を上げた。その悲鳴も、聞こえなかった。

ミラベルが、消えた。

消えたように見えた。次に見えたとき、ミラベルは喉の男の横にいた。

左腕の刃が、伸びていた。

喉の男の首が、傾いた。傾いて、そのまま、体から離れた。

音が戻った。

グリフォンの前脚の男が、横から鉤爪を振った。四本の爪の一本一本が、人の腕ほどの長さがある。

ミラベルは避けなかった。金属の腕で受けた。

火花が散った。

爪が、四本とも、根元から落ちた。

男が叫ぶより早く、ミラベルの右手が男の胸に触れた。触れただけだった。男は二十メートル後ろへ飛んで、船の光の柱の外で、動かなくなった。

『あと十一人。あ、十人か。数えるの苦手なんだよね、あっはは』


双子が来た。

背骨でつながった二人が、四本の腕で地面を掻いて、獣のように走ってきた。前を向いた顔と、後ろを向いた顔が、同じ言葉を同時に言った。

「本部の刃。記録にある。二百十年前の型」

声が二重に重なっていた。

『型って言うなよ、失礼だねぇ』

ミラベルの刃が、双子を横に薙いだ。

当たらなかった。

前の頭が刃を見て、後ろの頭が次の動きを読んで、四本の腕が別々の方向へ体を運んだ。刃は、二人の間の空気を切った。

ミラベルが、初めて足を止めた。

『…へえ』

笑っていた。さっきまでとは違う笑い方だった。

『いいじゃん。いいねぇ、あんたたち。前と後ろで見てんのか。そりゃ当たんないわ』

双子の四本の腕が、同時に振られた。ミラベルは刃で二本を落とし、金属の腕で一本を受けた。四本目が、脇腹に入った。

ミラベルの体が、横にずれた。

継ぎはぎの服が裂けて、その下から、血ではないものが出た。黒くて、光を返さない、粒のような液だった。

『あー。痛い。痛いって、これ』


マーロウは、それを見ていなかった。

見ていたのは、塔の足元だった。

残りの共和国の兵が、三人、一のほうへ走っていた。

一は逃げなかった。逃げ方を、九年の底で忘れていた。

マーロウは走った。

三十日壁を登った脚が、勝手に地面を蹴った。痛みがないので、どこまでも蹴れた。

一人目に追いついた。人の形をしていて、両腕が肘から先、黒い殻に覆われている男だった。殻の腕がマーロウの肩を払った。

肩の骨が、鳴った。折れた音だった。

痛くなかった。

マーロウは、折れた肩のまま、男の腕にしがみついた。

殻の継ぎ目が、擦れて剥けていた。赤い肉が覗いて、濡れていた。

自分の手のひらを、鉤で切った。深く。血が出た。

その手を、継ぎ目の皮膚に押しつけた。

男が、声を上げた。

押しつけた手のまわりが、黒くなった。黒くなって、粒が一つ、ぽとりと落ちた。桶一杯ぶん。人の体から、桶一杯ぶんの水が、一瞬で消えた。

男の腕が、萎んだ。萎んで、殻の中で、枯れた枝のようになった。

男は膝をついて、そのまま前へ倒れた。

マーロウは、自分の手を見た。

手のひらの傷は、もう塞がりかけていた。

足元に、粒が一つ落ちていた。米の半分ほどの大きさ。印はない。

印を打つ機械が、ここにはない。

何を消したのか、書く者がいない。


残りの二人が、足を止めていた。

マーロウを見ていた。倒れた仲間と、マーロウの手を、交互に見ていた。

その後ろで、翼が広がった。

ケイルが、飛んでいた。

八メートルの翼が一度打つと、砂が円く吹き飛んだ。二度打つと、ケイルは塔の足元にいた。

一の腕をつかんで、そのまま上へ。

『放せ。放せ、おい』

一が、九年ぶりに、大きな声を出した。

マーロウは跳んだ。届かなかった。指先が、一の靴の底を掠めた。

ドラグが、鶴嘴を投げた。

鶴嘴は、ケイルの右の翼の付け根に刺さった。灰白色の羽根が散った。

ケイルの体が傾いた。傾いて、立て直した。

見下ろした。弟を。

『…いい腕だ。昔から、投げるのだけは上手かった』

「降りてこい」

『降りない。おまえも一緒に来い、と言いたいが、それも言わない』

「なんでだ」

『言ったら、来るだろう。おまえは』

ケイルは、船の光の柱の中へ上がっていった。

一を抱えたまま。


マーロウは、ミラベルのほうを振り向いた。

ミラベルは、双子の片腕を切り落として、脇腹を押さえて立っていた。まわりに、共和国の兵がさらに二人倒れていた。黒い液が、指の間から垂れていた。

ケイルが上がっていくのを、見ていた。

見ていて、動かなかった。

「おい! あいつ、一を連れてくぞ!」

『見てるよ』

「止めろよ! あんたなら届くだろ!」

『届くね』

「じゃあなんで」

ミラベルは、脇腹から手を離して、黒く濡れた指を見た。

『あたしの仕事は、ここの人間を東へ連れてくことだよ、坊や。南へ連れてかれるのは、仕事の外』

「そんな理屈があるか!」

『あるんだよ。二百十年、それでやってきた』

ミラベルは、にっと笑った。

笑ったが、茶色いほうの目が、笑っていなかった。

『それにさ。あたしが本当に止めたいかどうか、あたし自身、まだ決めてないんだよね』

船の腹が閉じた。

光の柱が消えた。

三百メートルの黒い影が、音もなく、南へ滑っていった。星が一つずつ戻ってきた。

掘削地に残ったのは、倒れた共和国の兵が五人と、片腕の双子と、壁が一枚ない小屋と、足元の印のない粒一つと。

そして、七メートルから上がり続けている水位だった。

坑の底で水を下げられる血は、この世に二人しか残っていない。

一人は今、南の空にいる。

第二十七章 了