第二章
一滴

路地に入って四歩目で、後ろの足音が消えた。
マーロウは止まらなかった。止まると狙いやすくなる。歩く速さは変えないまま、壁際に寄る。左腕で箱を抱え直した。右手は空けておく。
前の角から男が出てきた。
ガス・トレヴァリアン。同じ拾い屋だ。マーロウより十は上で、体は倍ある。薄い金髪を油で撫でつけていて、鼻は昔つぶれたまま曲がっている。笑うと前歯が二本、金だ。わざわざ見せるように笑う。
嫌いな男だった。ただ、憎んではいない。この街で二十年拾い屋をやって生き残っている人間を憎むほど、マーロウは自分を偉いと思っていない。
『よお、マーロウ。聞いたぞ。排水口の格子な、三本目が抜けてるらしいじゃねえか』
「知らないな」
『知らねえやつの肩はな、鉄で裂けねえんだよ』
ガスの後ろの二人が、路地の左右に分かれた。囲む形だ。
十メートル後ろで、ウィラがランプを持ったまま止まった。
「ウィラ、下がれ」
『下がる。でも逃げない』
「下がれって言ってんだよ」
『下がるって言ってんじゃん!』
右の男が先に来た。
マーロウは箱を両手で持ち上げて、男の顔の前へ突き出した。男の目がそっちに動く。その一瞬で、右足を男の膝の内側に入れた。男は自分の勢いで前に倒れた。倒れた後頭部に、腰のフックの柄を落とす。骨に当たる嫌な音がして、男は動かなくなった。
左の男は銃を持っていた。
この街で銃を持っている拾い屋はいない。弾が高すぎる。一発で牛が一頭買える。
『ゆっくり置け。箱だけ置いて帰れば、それで終わりだ。悪いようにはしねえ』
「中身は知ってんのか」
『知るかよ。値段は知ってる』
「いくらだ」
『おまえが一生かけて稼ぐ額の、たぶん四十倍だ』
左の男の指が動いた。
撃つつもりはなかったのかもしれない。それでも撃った。
音が路地の中で膨らんだ。マーロウは箱の裏に顔を伏せた。
弾は箱に当たった。
当たって、止まった。
跳ね返りもしない。めり込みもしない。箱の表面には傷ひとつつかなかった。弾のほうが平たく潰れて、石畳に落ちた。
路地が静かになった。
ガスは潰れた弾を見た。それから箱を見た。それからマーロウを見た。金歯が引っこんでいた。
『おい。それ、何だよ』
「こっちが聞きてえよ」
ガスは一歩下がった。二歩下がった。倒れている仲間を顎で指して、銃の男に担がせた。
『マーロウ。ひとつ教えてやる。貸しにしとくからな』
「いらない」
『いるんだよ、黙って聞け。今朝な、鐘が二つ鳴ったときに、市場の裏で買い値が出た。灰色の鉄の箱、六十センチ四方、持ってきた者に相応の額を払うってな』
「それがどうした」
『船が落ちたのは、鐘の三つ目だ』
ガスは路地を出ていった。
水道橋の下には、使われなくなった太い水道管が走っている。人が背を丸めて歩けるくらいの太さだ。三十年前に水が止まって、それきりになっている。
マーロウはその中に入った。ウィラがランプを持って続いた。
箱を床に置く。肩の布をはがすと、傷はまだ開いていた。血が肘まで垂れている。
『ほら見て、だから言ったじゃん。先に縛る』
「後だ」
『後にすると死ぬよ』
「死なない」
『死んだ人、みんなそう言ってたよ』
「誰に聞いたんだよ、それ」
『死ぬ前に聞いた』
布を巻いているあいだに、血が一滴、箱の上に落ちた。
箱の表面に線が走った。
さっきまでなかった線だ。血の落ちた場所から、四方へ、ゆっくり伸びていく。
ウィラがランプを近づけた。
線は箱をぐるりと一周して、止まった。
ふたが、一センチ浮いた。
『ちょっと待って待って待って』
「離れてろ」
『やだ』
「ウィラ」
『三歩下がる。それ以上は絶対下がらないから』
マーロウはふたを持ち上げた。
中は白い綿のような詰め物で埋まっていた。冷たい。指がすぐにしびれた。
詰め物の真ん中に、ガラスの筒が一本、寝かせてあった。長さは腕の半分くらい。太さは手首くらい。両端が金属でふさがれていて、その金属に数字と短い文字が刻んである。
筒の中には、水が入っていた。
傾けると動く。ただの水だ。
先に気づいたのはウィラだった。
『ねえ。ねえってば。ここ、ここ見て』
金属の口のまわりに、白い粉が吹いていた。指でこすると、じゃりじゃりした。
舐めるまでもなかった。
塩だ。
マーロウは筒を持ったまま、しばらく何も考えられなかった。
海の水を、帝国が船で運んでいた。
この街の人間は、海を見ることさえ避けて暮らしている。子どもは波が来れば勝手に足が下がる。壁を越えれば撃たれる。それが何百年も続いている。
その海の水が、鉄の箱に入って、空を飛んでいた。
『これ、まずいよ。ねえ、まずいって。捨てよう』
「どこに捨てるんだ」
『それは、えっと』
「海だな」
『言わないでよそういうの!』
ウィラが手を伸ばした。
「触るな!」
『触んないよ! 指さしてるだけでしょ!』
ウィラが指したのは床だった。
筒を持ち上げたとき、金属の口から水が一滴だけこぼれていた。
落ちた先に、マーロウの血がたまっていた。
血と水が触れた。
音はしなかった。光もしなかった。両方とも、ただ消えた。血も水も、床の上から無くなった。
あとに、黒い粒が一つ残った。水は一滴しかなかった。それでも、粒はいつもの大きさだった。
米の半分くらいの大きさで、透明でもないし黒くもない。見ているあいだ、色を決めかねているような色をしている。
ウィラがランプを近づけた。声が半分になっていた。
『これ、ニムのとこにあるやつだよね』
「そうだ」
『でも牛も羊も使ってないよね』
「使ってない」
『じゃあ何を使ったの。ねえ、何を使ったの』
マーロウは答えなかった。
答える代わりに、左の袖をまくった。
肘の内側に数字がある。生まれたときからある。皮膚の下に入っていて、こすっても消えない。母親は知らないと言った。母親が死んだと聞かされた日に、その話も終わった。
七桁の数字だ。
マーロウは朝から握りっぱなしだった名札を出して、腕の横に並べた。
死んだ男の名札の番号と、自分の腕の番号。上の四桁が同じで、下の三桁だけが違う。
それから、ドラグが秤の皿に置いた名札を思い出した。あれも上の四桁は同じだった。下の三桁だけが、腕とも、死んだ男とも違っていた。
同じ名前の番号が、三つ。
ウィラが腕の数字を見て、それから名札を見て、それからマーロウの顔を見た。
『マーロウ』
「言うな」
『言うよ。あと何人いるの』
水道管の入口で、金属を引きずる音がした。
マーロウはランプの火を消した。
暗闇の中で、声がした。
『マーロウ! おれだ、ガスだよ! 鉤、振るなよ、振るなって!』
声が変だった。息が短い。
ウィラが火を入れ直した。
ガスは管の口に膝をついていた。右の耳から顎まで血で濡れている。片方の手で、もう片方の手首を押さえていた。押さえているほうの手は、真ん中の二本がなくなっていた。残っているのは三本だけだ。
「連れの二人は」
『いねえ』
「死んだのか」
『死んでねえよ。連れてかれた。歩いていったんだよ、自分の足でだ。並んでついてった。おれが名前を呼んだんだぞ。二十年一緒にやってきた連中だ。振り向きもしねえ』
ガスは血を吐いて、続けた。声が震えていた。虚勢を張る余裕が残っていない。
『買い手の名前を聞いた。いや、聞かされた。あいつら、おれに伝えさせるためだけに、指を二本持っていきやがった』
「名前は」
『シビル・オーヴェイン』
ウィラのランプが、少し揺れた。
マーロウはその名前を知らなかった。
ウィラは知っていた。
第二章 了