海壁

第二十八章

二十九日

挿絵:二十九日

夜が明けるまでに、数を数えた。

数えたのはロズリンだった。机の下から出てきて、紙束を抱えたまま、掘削地を一周した。

『坑夫十九人、全員生存。うち四人が壁の下敷きで骨を折っています。共和国の兵、五人が死亡。一人が片腕を失って生存』

「一人? 双子だろ、あれは」

『一人と数えるか二人と数えるか、まだ決めていません』

ロズリンは眼鏡を押し上げた。押し上げた手が震えていた。

『決めていないので、空欄にしてあります。空欄は嫌いですが、嘘を書くよりはましです』


水位は九メートルになっていた。

ロズリンが、紙に三つの数字を並べていた。

一晩目で三メートル。二日目の夜で七メートル。今朝で九メートル。

「上がり方が、一定ではありません」

『水はそういうもんだろ』とハーランが言った。

「そうかもしれません。そうでないかもしれません。分からないので、数字だけ書いておきます」

ハーランが錘を巻き上げて、目盛りを読んで、しばらく黙っていた。

それから、錘を地面に置いた。

『もう測らん』

「なんでだ」とマーロウは訊いた。

『測っても下がらんからだ』

ハーランは、塔を見上げた。高さ六十メートルの鉄の骨組みが、朝の光の中で赤く見えた。

『おまえが下りれば、下がるのか』

「…下がる」

『下りる気はあるか』

マーロウは答えなかった。

答えなかったことで、ハーランは答えを受け取った。

『そうか。なら、いい』

「いいって」

『埋まるものは埋まる。六十年でも、九年でもだ』

ハーランは、火傷のない側の顔で、少しだけ笑った。この男が笑うのを見たのは、初めてだった。

『九年、空と書かれた紙に判を押してきた。最後くらい、本当のことが書いてある紙に押したい。穴、水没。それでいい』


片腕の双子は、塔の足元に縛られていた。

縄を掛けたのは坑夫たちだった。四本あった腕が三本になって、背骨でつながった二人は、前と後ろを向いて座っていた。

ドラグが前に立った。

「名前は」

『ヨルン・ベック』

二つの口が、同時に言った。それから、後ろを向いたほうだけが言い直した。

『ユラン・ベック。ヨルンは前のほうだ。おれは後ろ』

「別の名前があるのか」

『あるよ。共和国に行く前からある。生まれたときは、二人だった』

前を向いたヨルンが、目を閉じた。

『つなげられたのは二年前だ。前を見る者と後ろを見る者がいれば、刃は当たらない。そういう計算だった。当たったけどな。あの女に』

ドラグは、しばらく黙っていた。

「兄は、共和国で何をしている」

『ケイル将軍か』

「将軍」

『翼を持ってるのは、あの人だけだからな。獅子の翼だ。空を飛べる者が上に立つ。共和国はそういう国だ』

ドラグの顔は変わらなかった。変わらなかったが、握った拳の関節が白くなっていた。


ウィラが、マーロウの袖を引いたのは、昼前だった。

引いて、小屋の陰まで連れていった。誰もいないところまで。

『ねぇ』

「なんだ」

『まだ聞いてない』

「何を」

『とぼけないでよ。答え。籠に乗る前に約束したじゃん。上がってきたら言うって』

マーロウは、それを忘れていたわけではなかった。

ただ、上がってきてから、言う暇がなかった。暇がなかったのは本当だ。本当だが、言い訳でもあった。

「…言う」

『うん』

「一回しか言わないぞ」

『いいから早く』

マーロウは、小屋の壁にもたれた。

「本部に、台帳があった。おれと同じ顔のやつが百六人、全部載ってた。番号と、作った日と、行き先」

『…うん』

「いちばん右に、名前の欄があった。百六人ぶん、全部、空だった」

ウィラの顔が、変わった。

牛の帳面の話をしたときの顔だった。

「おれがやりたいのは、それを空にしとかないことだ」

『…』

「何かが消えるときに、何が消えたのか分かるようにしとく。牛でも、人でも、粒でも。それだけだ。それがおれのやりたいことだ」

ウィラは、しばらく何も言わなかった。

それから、下を向いて、小さい声で言った。

『…それ、あたしが石に彫ったのと、ほとんど同じなんだけど』

「は?」

『なんでもない』

「待て、今なんて言った」

『なんでもないってばぁ!』

ウィラは顔を真っ赤にして、走っていった。

マーロウは、その背中を見送った。

灯台跡で、あの子が石の板に何を彫ったのか。

知らないまま、知ってしまった気がした。


ミラベルは、塔の根元の石に座ったままだった。

脇腹を押さえている。指の間から、黒いものが垂れていた。一晩経っても止まっていなかった。垂れたものは、地面に落ちる前に固まって、小さな粒になって転がった。

マーロウは、その粒を見た。

米の半分ほどの大きさで、透明でもないし黒くもない。見ているあいだ、色を決めかねているような色をしている。

「…あんた、それで動いてるのか」

『あ、バレた?』

ミラベルは笑った。昨日より、声が少し細かった。

『あたしの中、半分はこれなんだよ。粒。燃えてる間は動ける。漏れると、そのぶん鈍る』

「どれくらい漏れた」

『んー、三割? 四割かな。あの双子、いい仕事したよ。褒めといて』

「本部に戻れば足せるのか」

『戻れればね。六日かかる。六日保つかは、微妙なとこ』

マーロウは、帯の左側に手を入れた。

革の小袋を出した。

紐をほどいて、手のひらに一粒出して、ミラベルの前に差し出した。

ミラベルの笑いが、止まった。

茶色い目と、金属の目の両方で、その一粒を見ていた。

『…どこで拾った、それ』

「坑の底だ。一が九年かけて作ったやつだ。百ある」

『百』

「取引しないか」


ミラベルは、手を出さなかった。

出さずに、マーロウの顔を見ていた。

『条件は』

「二つだ。一つ、ここの連中を東へ連れていくのをやめろ」

『それは無理だよ、坊や。仕事だもん』

「最後まで聞け。二つ目。一を取り返しに、南へ行け」

ミラベルは、瞬きをした。茶色い目だけで。

『…南は、仕事の外だって言ったよね』

「言った。だから確かめる」

マーロウは、おとといの昼のことを思い出していた。

この女は、連れていく者を指さして数えた。金属の指で。十九人と、主任と、隊長と、書記と、嬢ちゃんと。

「坑底から上がってきたおじさん、って言ったな。あんた。連れていく者の中に」

『…言ったねぇ』

「じゃあ、一はあんたの荷だ。その荷が、今、南にある」

『…』

「あんたの仕事は、ここの人間を東へ連れていくことだろ。一をここの人間から外した覚えは、あんたにも本部にもないはずだ」

ミラベルは、長いあいだ黙っていた。

それから、急に笑い出した。

脇腹を押さえたまま、体を折って、声を上げて笑った。黒い粒が、ぽろぽろと地面に落ちた。

『あっはは! あっはははは! ずるい! ずるいなぁ坊や! 二百十年、そんな屁理屈こねてきた奴いなかったよ!』

「屁理屈じゃない。数え方の話だ」

『それを屁理屈って言うんだよぉ』

ミラベルは、目尻を拭いた。金属の目からは、何も出ていなかった。

『で、ここの連中は? 東へ連れてかないと、あたし、本部に叱られるんだけど』

「荷を一つ取り返してからでも遅くないだろ。取り返しに行くのが先だ。順番の話だ」

『順番の話ねぇ』

ミラベルは、右手を出した。金属ではないほうの手だった。

マーロウは、その手のひらに一粒を置いた。

ミラベルは、それを口に放り込んで、噛んだ。

ばり、と音がした。

脇腹の黒い流れが、止まった。

『…うま』


話が決まったのを、ロズリンは机の上で聞いていた。

聞き終わって、紙を一枚引き寄せた。何かを計算していた。

「グリムさん。一つ伺ってよろしいですか」

『なに、書記さん』

「共和国まで、ここから何日かかりますか」

『南の? 歩いて二十九日。あたしが走れば十日だけど、坊やたちは走れないでしょ』

「往復で」

『五十八日』

ロズリンの筆が止まった。

マーロウは、その顔を見て、嫌な予感がした。

「何だよ」

『荷台の海水の筒は、百二十本でしたね』

「そうだ」

『街までの往復は、六十二日です。私は、ずっとそれが引っかかっていました。多すぎる、と。五十八日ぶん、余る、と』

ロズリンは、紙をマーロウのほうへ向けた。

数字が二つ並んでいた。

余りの五十八日。

南への往復の、五十八日。

『本部は、荷を積んだ日から、あなたが南へ行くことを知っていました。共和国がここへ来る前からです』

掘削地の風が、一度止んだ。

ミラベルが、口の中の粒を飲み込む音がした。

『…あー。あいつ、そういうとこあるんだよねぇ』

笑っていた。

茶色い目は、笑っていなかった。

第二十八章 了