第二十四章
水位

籠の中の男は、膝を抱えて座っていた。
出てこなかった。
誰も手を出さなかった。出していいのかどうか、全員が分からなかった。
マーロウが前に出て、籠の枠に手をかけた。
「おい」
『…明るいな』
「昼だからな」
『明るいな。明るい』
一は、目を閉じたまま言った。九年、白い灯り一つで暮らした目だ。
マーロウは上着を脱いで、一の頭にかぶせた。
『何をする』
「旅の臭いがついてるが、我慢しろ」
『…助かる。助かるよ』
一が籠から出るのに、十分かかった。
脚が動かなかったのではない。地面が動かないことに、体が慣れていなかった。
立ち上がって、三歩歩いて、止まった。
それから、風のほうを向いた。
『風だ』
「風だな」
『九年ぶりだ。九年ぶりだぞ、これ』
一は両手を広げた。広げてから、恥ずかしそうにやめた。やめ方が下手だった。
ウィラが近づいてきた。
三歩手前で止まって、顔を上げて、しばらく見ていた。
一も、上着の隙間から見返した。
『…似とるな』
「そりゃ似てるだろ」
『そっちじゃない。この子だ』
「誰に」
『知らん。誰かに似とる。誰かは思い出せん』
ウィラは、その言い方に怒らなかった。
代わりに、手を出した。
「ウィラ・ドーセットです」
一は、その手をしばらく見ていた。
握手というものを、九年していない。たぶん、その前の二年半もしていない。
手を出して、握って、それから一度、強く握り直した。
『名乗られたのは、十一年ぶりだ』
ハーランがそれを壊した。
壊したくて壊したのではないのだろう。仕事だったからだ。
「一つ訊く。下の水位は、今どうなっている」
『下がっとる。今朝も二時間やってから乗った』
「今朝やって、明日は誰がやる」
一が、上着の隙間からハーランを見た。
それから、ゆっくり言った。
『…誰もおらん』
掘削地の十九人が、また手を止めた。
今度は、止まり方が違った。
「三日で床まで来ると言ったな」とマーロウが訊いた。
『言った。金属の床までだ』
「その先は」
『その先は測っとらん。測る意味がなかったからな。毎朝下げとったから』
ハーランが、秤の縁を握った。
火傷のない側の顔が、はっきり動いた。この男がそこまで動くのを、マーロウは初めて見た。
『穴が埋まる』
「六十年ぶんか」
『六十年ぶんだ』
誰も怒鳴らなかった。
怒鳴る相手が、この場にいなかった。
引き上げろと書いたのは本部で、本部は六日東にあって、紙で喋る。
引き上げろと言わせたのは、マーロウだ。
「おれが言った」
言ってから、後悔はしなかった。後悔しない自分に、少し驚いた。
「条件の一つ目に出した。坑底の男を上げろって」
『…あんた』とハーランが言いかけて、口を閉じた。
閉じてから、開いた。
『それは、正しいことだ』
「そうか」
『正しい。正しいが、私は十九人に何と言えばいい』
マーロウは、その十九人の顔を見た。
名前を知っているのは一人もいない。四十日ほど前に二晩泊まって、飯をもらっただけだ。
そのうちの何人かは、六十年の三十年ぶんをここで使っている。
ドラグが、そこで前に出た。
『ベッセル主任。報告の形を決める必要がある』
「形か」
『坑が埋まる。これは動かせん。動かせるのは、誰の判断で埋まったかだけだ』
「本部の指示だ。紙がある」
『その紙を出せば、本部が困る。本部が困ると、困った先を探す。探した先に、この十九人がいる』
ハーランは黙った。
ドラグは続けた。声は同じ高さだった。
『おれが出す。壁の隊長が、管轄外で坑内作業員の引き上げを命じた。手続き違反だ。処分はおれ一人で済む』
「待てよ」とマーロウが言った。
『待たん』
「おれが言ったんだ。おれが書けばいいだろ」
『おまえは帝国の人間じゃない。処分する欄がない』
ドラグは、初めてマーロウのほうを正面から見た。
『欄のない人間は、書類では存在せん。存在せんものに責任は載せられん』
ロズリンが、机の上で紙をめくる音がした。
「モーテンセン隊長。一つだけ申し上げます」
『言え』
「あなたのお兄さんの欄も、空のままです」
ドラグは、しばらく何も言わなかった。
それから、荷車のほうへ歩いていった。
第二十四章 了