海壁

第九章

乾いた海

挿絵:乾いた海

通算十二日目から十六日目まで、何も起きなかった。

牛が十頭に減ったので進みが遅い。一日に進む距離は、当初の三分の二になった。荷役の仕事は、荷を縛り直すことと、車輪に油を差すことと、牛の脚を見ることだ。マーロウは一日に六回やった。ウィラは四回で音を上げた。

五日のあいだで変わったことが一つある。ウィラが毎晩、火のそばで字を書くようになった。


『違います。それは「ぬ」ではありません』

「じゃあ何なのこれ」

『何でもありません。そういう字はありません』

「えぇー! だってニムの帳面、こう書いてあったもん!」

『ニムという方の字が間違っています』

ウィラは口を尖らせた。ロズリンは筆を取って、自分で一度書いてみせた。

『輪を先に閉じます。閉じてから下ろす』

「輪を先」

『はい。下ろしてから閉じると、そういう形になります』

ウィラは三回続けて書いた。四回目で顔を上げた。

「これは?」

『それは「ぬ」です』

「やったぁ!」

ウィラは立ち上がって、火のまわりを一周した。護衛が二人、何事かという顔で見た。

マーロウは荷車の陰で、それを見ていた。

ウィラは四年前、牛の帳面を読むために一年かけて字を覚えた。読むだけだ。書くほうを教えた人間は、今までいなかった。

ロズリンが戻ってきて、横に座った。

『あの子は速いです。二晩で四十字覚えました』

「今まで何人に教えた」

『二人です』

「じゃあ二人中一番か」

『一番は一番です』


通算十七日目の昼、地面が終わった。

正確には、下がりはじめた。赤い土の平らな面が、ゆるい坂になって、その先が見えない。

荷車を止めて、マーロウは縁まで歩いた。

縁の向こうは白かった。

深さは数百メートル。幅は、向こう岸が霞んで見えない。底まで全部が白くて、ところどころ、風で削れた筋が波の形に残っている。

塩の匂いがした。禁止区と同じ匂いが、この規模で来る。

そして、底に船があった。

見えるだけで二十三隻。横倒しのもの、船首を上に向けて刺さっているもの、骨組みだけのもの。いちばん大きいのは、あの街の市場がまるごと入る大きさだった。

『…海だったの、ここ』

「海だな。船がある」

『どこ行ったの、水』

「粒になったんだろ」

言ってから、マーロウは自分の言葉を聞き直した。

牛一頭で粒が一つ。羊二頭で粒が一つ。目の前の窪みが全部粒になったなら、それは何粒になるのか。

『ねぇ。それ、誰がやったの』

「そこまでは分からん。分かってるのは、ここに海があって、今は無いってことだけだ」

ロズリンが遅れて縁に着いて、板を落とした。拾わずに、しばらく立っていた。

『二百年前の記録に、東の窪地、と書いてあります』

「船のことは」

『書いていません。窪地、の三文字だけです』

「書いたやつは見たのか」

『見たはずです。見て、三文字で済ませたんです』

ロズリンは板を拾って、砂を払って、書きはじめた。手が止まらなかった。


ドラグは荷車を一時間止めさせた。

坂を下りて、白い底へ一人で歩いていった。小さくなって、いちばん近い船のところまで行って、しゃがんだ。戻ってくるのに四十分かかった。

「何を置いてきた」

『兄の名札だ』

「遺体はここにあるのか」

『無い。どこにあるかも分からん』

「じゃあなんでここに置く」

『ここまでは来たことが分かっている。ここから先は分からん。分かっている一番遠い場所に置いた』

ドラグは荷車の縄を締め直しながら言った。声はいつもと同じだった。

『帰りに寄る。そのときまだ置いてあれば、持って帰る』


道は窪地の底を突っ切らず、縁に沿って北へ回り込んでいた。底を行くより三日長い。誰も文句を言わなかった。

通算十八日目の朝、先頭の護衛が手を上げて、列が止まった。

縁から少し下がったところに、荷車が六台あった。

倒れていない。壊れていない。牛はいない。轅が地面に下ろしてあって、石できちんと支えてある。誰かが丁寧に停めた形だった。

ドラグが先に近づいた。マーロウも続いた。

荷は積んだままだった。樽も木箱も、縄で縛られたまま載っている。

ドラグが水樽の栓を抜いた。水が出た。手のひらに受けて、匂いを嗅いで、少し舐めた。

『腐っていない』

「一か月経ってるんだろ」

『そうだ。十八本のうち十七本が満杯だ』

ドラグはそこで、周りの護衛に聞こえる声で言った。

『はっきりさせておく。この隊は襲われていない。襲われたなら水が残らん。水吸いは真っ先に樽をやる』

『逃げたんでもない。この道で水を置いて逃げる人間はいない。置いた時点で死ぬ』

『つまり、全員が自分の意思でここを離れた。荷も水も要らないと判断してだ』

護衛の一人が、小さく何か言った。ドラグは無視した。

「オットとサムと同じだな」

『同じだ。連れていかれたんじゃない。歩いていった』


『ねぇ、これ』

ウィラが、四台目の荷車の横にしゃがんでいた。地面を指している。

足跡があった。

白い土は硬い。普通に歩いても跡は残らない。ただ、この一帯だけは表面に塩の膜があって、そこに靴の形が焼きついたように残っていた。

荷車から東へ向かって、まっすぐ伸びている。乱れていない。走った跡も、立ち止まった跡もない。二列に並んで、同じ歩幅で、東へ歩いている。

『先月の隊の人数を言います。護衛十二、御者六、荷役二、隊長一。合計二十一人』

「数えろ」

ロズリンが膝をついて、足跡を指で追いはじめた。マーロウは反対側から、ウィラは真ん中から数えた。

三人の数が合うまで、四回やり直した。

五十八組あった。

『二十一人が出発して、五十八人が東へ歩いています』

「途中で合流したんじゃないのか」

『合流したなら、別の方向から来た足跡があるはずです。ありません。西から来ているのは、先月の隊の分と、私たちの分だけです』

「じゃあ残りの三十七人はどこから来た」

『分かりません』

ドラグが横で言った。

『分かることだけ並べる。東に、人を集めている何かがいる。集められた人間は自分の足で歩く。集まる人数は、出発した人数より増える』

「増える理由は」

『分からん。だが増えている。三十七人ぶんだ』

ロズリンは一行だけ書いた。

『足跡、五十八組、東へ。以上です』

「それだけか」

『見たものしか書きません。三十七人がどこから来たかを書きはじめたら、この本は三百年ぶんの噂話になります』

ロズリンの手は震えていた。字は震えていなかった。


その晩、火のそばでウィラが眠らなかった。マーロウも眠らなかった。

眠くならないことに四日前から気づいている。それはまだ誰にも言っていない。

『ねぇ』

「寝ろ」

『さっき、数え間違えたかもって思って、もう一回行ってきた』

「一人でか」

『すぐそこじゃん』

ウィラは膝を抱えたまま、火を見ていた。

『五十八だった。何回やっても五十八』

「ならそれでいい」

『よくないよ。あのさ』

そこで黙った。言うか言うまいか迷っている顔だった。三年見てきたので分かる。

「言え」

『足跡の、いちばん小さいやつ。あたしの靴と同じ大きさだった』

マーロウは、その意味をすぐに理解した。

先月の隊の荷役は二人。ロズリンが読み上げた名簿では、二人とも成人の男だった。子供はいない。

それを言えば、ウィラは自分の足跡を数えられている気分になる。

「明日、ロズリンに名簿をもう一回見せてもらう」

『…うん』

「一人で行くな。次から」

『うん』

ウィラは火に枝を足した。足してから、小さい声で言った。

『マーロウ、眠くないでしょ』

「…眠くない」

『やっぱり』

「四日前からだ。言ってなかった」

『言ってよ、そういうのは』

「言ったら寝ないだろ、おまえが」

『寝ないよ。当たり前じゃん』

ウィラは膝を抱え直して、マーロウの肩に頭を預けた。

『起きてていいから。あたしが寝るまで、そこにいて』

マーロウはそこにいた。

第九章 了